一年生

怖い存在になる

子どもがするイタズラやちょっと悪いことに対して、ボクは見て見ぬ振りをすることが多い。女の子がボクにそれを言いつけにきても「ふ〜ん、そりゃあいかんねえ」などと、あいまいな返事をして取り合わないことが多い。子どもたちの間で日常的に起こる小さなトラブルは、当事者どうしで解決することに意味がある。訴えがあったからといっていちいち大人が出てはいけないと思うからである。

細かなことで子どもを叱ることはないが、大きなことではガツンとやることが時々ある。どうしても中止させた方がいい遊び方をしている場合や、何度注意しても効き目がない場合などである。例えば火の扱いについては、取り返しがつかないことになるおそれがあるので厳しく言うのは当然である。あるいは、スコップでとんでもない場所を掘っているような場合もそうだ。がけの下など掘れば、本人が危険である上に、土地の形が変わってしまったりする。また、粘土が採りたいからといって水路の一部を大量に掘り取られてしまっては水の流れに影響が出てしまう。こんな場合は、よく理由を説明した上で、してはいけないゾと釘を刺す。その他に、「この人の言うことをきかないとこわい」ということを刷り込むための演技として厳しく注意する場合がある。そんな例の一つが先日もあった。

ボクが大工仕事をしている横である一年生の子が遊んでいた。ふと見ると、そばに置いてあったL字型のクギ抜きで立ち木に傷をつけている。クギ抜きのとがった先を何かに食い込ませたいだけの、目的のない衝動的な行為に見えた。相手は生木である。そんなことしちゃあいかんよ、とボクは注意したがやめる気配がない。「オイ、○○。やめろよ」と声を大きくした。チラリとこちらを見たが「いいじゃん」とか言いながらやめようとしない。「ダメダぞ、そんなことをしては・・・。」ボクは本気であることを示すために語気を強め、目に力を込めてにらみつけたが効果はない。しかたがないので平手で頭を斜めに叩いた。そこで初めてハッとした顔をしてクギ抜きを置いた。

ボクが声を大きくしてにらみつけるとそれだけで大抵の場合は効く。それはボクの本気さを知っている上級生の場合であり、新一年生についてはニラミが通用しないことが時々ある。幼いゆえに単にことの重大さに気がつかないだけなのかと思われるが、見ようによっては、ポランという所ではどんなことが許され、どんなことが禁止されるのか、許容の範囲を試しているようにも見える。言葉が通じていない、言葉が届いていない、受け止められていないと感じる瞬間でもある。こんなとき、ボクはキッパリと有無を言わせない態度でガツンとやる。この人は怖いということを体でわかってもらうための演技であり、ひとつの儀式(洗礼)かもしれない。クギ抜きの彼もその洗礼を受けたというわけだ。

できることなら、優しいおじさんの顔だけ見せていたい。孫に甘いオジイチャンでいる方が気楽である。でも、七十人の子どもが自転車で一斉に行動したり、遊泳禁止の海へ遊びに出かけたり、マムシやスズメバチのいる森を歩いたり、危険なガケをよじ登ったり、焚き火をしたり薪ストーブを燃やしたり、一年生にナイフを使わせたり・・・、そんなことを続けるためには、怖い存在が必要なのである。大人の発する一声に即座に反応して行動してもらわなければならない時があるのである。言葉が届かないような子がいたのでは、危険と隣り合わせのプログラムを続けることはできない。

今回バシッとやられた子は、ほんのしばらくの間はボクの近くに寄らなかったがやがて、ロクさんそれ何?と言いながら寄って来たのでザリガニ取りをいっしょにやった。さっきのことはケロリと忘れているようだ。ここが子どものいいところだ。心を鬼にしてガツンとやったおじさんは、子供のこんな屈託のなさにいつも救われた気持ちになる。

貴重な香り体験

ポランのトイレは水洗ではない。定期的に、清掃会社のバキュームカーに汲み取ってもらう。先日、その車がやってきた。作業が始まるとあたりには原始的な人間的な臭いが漂い始めた。くっせー、ドぐっせーを連発しながら、子どもたちはバキュームカーの周りを飛び跳ねている。一部の子はおやつを済ませていたが、ウンの悪いのはちょうど下校してきた上級生たちだ。手で鼻と口を押さえて車の横を走り抜け、部屋に飛び込み、おやつを持って風上の方に飛び出してゆく。

昔はこの臭いのことを「田舎の香水」と言っていたことを思い出した。どこの家もボットン便所で、もちろん学校もそうだった。バキュームカーなどもないので校長や教頭が手作業で汲み出している姿を見かけたものだ。肥びしゃくで肥桶に汲み取り、天秤棒で担ぎ上げて、肥料として畑に撒くのが普通だった。だから昔の田舎を吹く風は、人間味のある香りを漂わせていたわけだ。しかし、化学肥料が普及し、下水道が完備し、人糞を畑に撒く農家も無くなって、この臭いけれど愛すべき香りはいつしか田舎を吹き渡る風の中から消えた。 思えば、畑で取れた食べ物が、人間の体を通過して再び畑へもどっていくことを、この人糞肥料のおかげで昔の人間はみんなが自然に理解していた。窒素が人の手で完全な循環サイクルに乗っていたのである。今は、野菜ですら工場で生産される時代である。魚の切り身が海を泳いでいると思っている子どもがいる時代である。ポランで定期的にこの臭いが漂うことは、案外貴重な体験かもしれない。このことを題材にして、食べることと出すこと、廃棄物やゴミの問題を考えるきっかけにしてみようかな。

人生が変わるかも

カントリという遊びがある。相手の陣地の前にある宝を、相手の守りのスキを突いて奪い取って来るという遊びである。Sケンやサクラオトシのように体をぶつけ合って格闘するわけではない。チームが勝つためには、ちょっとしたタイミングを計り、すばやく行動するだけでいい。痛いこともない。怖いこともない。特別に勇気も要らない。必要なのはふつうの脚力と状況判断力だけだ。宝を奪取することに失敗したとしても、惜しかったと評価されこそすれ、仲間から非難されることもない。

先日、カントリが始まる前に、これまで一度もカン(宝)を取ったことのない子がどのくらいいるか数えてみた。思った以上に多くの手が上がった。つまり、四年生の子ならこの四年間に四、五十回はやったであろうカントリで、数百回も宝を取るチャンスがあったであろうのに、たったの一度もそれをしなかったということである。相手の宝に向かって走ったこともないということだ。いつも何となく敵を追い払っていただけということになる。

カントリでは、宝を奪いに相手陣に向かって行く子と、自陣の中や近くで自分たちの宝を守る子と、役割分担がある。それはチームの誰かが指示するというより個人の性格で自然に決まることが多い。つまり、攻撃型の性格の子はいつもすきあらば宝を奪おうとしているし、控えめで目立たない性格の子は大抵いつも宝を見張っているか、ただ漫然と走り回っていることになる。それはそれで、相手にスキを作らせる役目を果たしていることにはなるのだが・・・。

《誰にでもチャンスがあり、ちょっとだけ勇気を出してトライしてみればできることなのに、そんなことを自分がしようとは考えたこともない》ということがあるとしたらソレは何だろう。級長に立候補すること?宝くじを買ってみること?人によってはそうかもしれない。PTA総会で手を上げて発言するなんて、私には考えられないという人もあるかもしれない。真っ赤なスポーツカーを運転してみること?そもそも車なんて動けばいい、と思っている人には全く無縁のことかもしれない。

手を上げた子の多くは、たしかに普段から目立つことの少ない子であり、オレがオレが、と前に出るようなタイプではない。宝を取って、チームの勝利に貢献しようなどとはそもそも考えないのかも知れない。頭から自分の出る幕ではないと思い込んでいるとしたらちょっと残念なことだ。でも、そんな子だからこそ、一度くらいはトライしてみることを勧めたい。これから先、ポランを卒業するまでに一度でいいから、宝を奪い取ってみることを自分に宿題として課してみたらどうだろうか。数百回もチャンスがあるのだから。人生が変わるかも知れないよ。

電動エンピツ削り器

電動のエンピツ削り器を買い換えた。古いのは、市から配布されたものだったが、一体何年使っただろうか、十年か、いや、もっと長く使い続けたような気がする。最近では、先がとがらなくなったり、削り面がガサガサで、切れない刃物でむしりとったような状態だった。それもそのはず、普通の家庭の何十倍も使ったのだから。一日にだいたい三十人の子が削るとして、一週間で百五十回、一ヶ月で四千五百回、一年で五万四千回、十年で五十四万回。ひょっとしたら耐久性をチェックする製品テストでも十万回もやっていないかも知れない。新品で削った時、こんなに軽々と、きれいに、滑らかに削れるものだったのかと、あらためて感激してしまった。

生き物体験はポランの必須科目

土曜が休みになって以来、子どもたちの下校時刻が遅くなった。平日に授業が増えたからだろう。最近では一、二年生ですら帰って来るのは三時半だ。まとまった遊びをする時間がない。以前は、学年やクラスによってまちまちで、二時台に帰って来ることも多かった。その頃はおやつの前にいろいろな遊びができた。今は、木曜日だけだ低学年が早く帰って来るのは。 そんな貴重な木曜日なのに、ここ数回、雨になることが続いたが、やっといいお天気の木曜日が来た。一部の一年生と約束してあった魚取りに行くことにした。タモや竹網、バケツを用意し、さあ、行こうとしたが、せっかくだからと思い、他の一年生にも声をかけた。するとYもTもKも「いやだ。ボク、行かん」と言う。ポランの魚取りがどんなものなのか知らずにイヤだと言っている。宿題をしている子もいたが、ここは一つみんなを無理やり連れて行くことにした。 場所は、学校の南側に広がる田んぼの間を流れる川と言うより側溝のような水路。ポランの前を流れる水路は、山に近すぎるせいか生き物が少ない。ここまで足を延ばすと生き物の種類が増えて楽しくなる。子どもたちとゆったり往復すると三十分くらいかかる。だから時間のある木曜日でないとダメなのだ。この日も、大小のドジョウが数匹、タウナギが二匹、シジミもすくえたし、ハヨやヨシノボリもとれた。田んぼにはホウネンエビもいた。ここでは運がいいとメダカも取れる。 無理やり連れ出した一年生たちだったが、獲物が取れると大騒ぎで、バケツと網の間を往復する。イヤダと言った連中が一番嬉々としている。ナガグツをはいていない子は、水路をあっちこっちと飛び越え、畦道を行ったり来たりして、水路の中の子に指示している。シジミだけ集めている子もいる。 さて、生き物体験は子どもの時代に絶対にしておかなくてはいけないとボクは思う。理由はいずれ書くが、その生き物体験が少なくなり、初体験の年齢が上がっている。以前なら、小学校に入学する前に、魚取りもクワガタ取りも体験済みだったが、近頃は、ポランで初めて体験する子が増えた。これは困ったことだとボクは思っている。たとえ遅くても、やらないよりはやったほうがいい。ポランの役割が一つ増えたと感じている。

ポラン
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