子供のケンカや言い争う姿には慣れてはいるが、この夏休みに入ってからトラブルが少しばかり増えた気がする。プールの中で起こる小さなトラブルが増えたのかもしれない。ケンカなら見て見ぬふりをしつつ、決着を見守るのがいつものやり方だが、最近はケンカらしいケンカはあまりない。起こるのは小さないざこざや言い争いだ。そして弱い子が泣いたり、相手の非を訴えて来る。そんなことが多い。一部の子が傍若無人(ぼうじゃくぶじん=勝手気ままなこと)にふるまう姿が特に目立つようだ。周囲への迷惑を考えず、自分の部屋にいるかのような自己チューな言動は時に大人の目にも度が過ぎると映ることがある。そうなると迷惑をこうむった側の言い分に耳を貸すことがどうしても増える。聴いてもらえるとなると訴えてくる子の数も増える。言い争いの種を作る子もだいたい決まっている。気性の激しい子や負けず嫌い、何でも一番にやりたがる子などである。
子供の世界も大人と同様に人間関係は昔よりデリケート(繊細)になっている。大人社会の影響を強く受けながら大人の監視の下で過ごしている昨今の子供たちにボクは同情的である。ボクの世代は、物質的には満たされなかったはずだが、遊びたい子と遊び、遊びたいことをして遊んだ。それは今から思えばとても幸せな放課後だった。ポランの遊び方が他と少し違うとすれば、子供たちへの制約や管理を少しでも減らすほうが楽しいだろうというボクの思いに原点がある。算数やスポーツ、ピアノなど、子供の具体的な能力や技術を伸ばすには大人が管理しコントロールする方が効率的である。でも、自主性や自発性、自由な発想力や創意工夫などを育むには管理の少ない時間を過ごす方がいい。その子の人生という長い目で見た時、何が幸せなのか、それを考えるのが結局、大人の務めだと思う。そしてできれば、世の中が平和であることとか、地球環境がこれ以上悪化しないことなど、幸せの大前提となる大事なことへの視点も持ち合わせていたいものだ。
夏休み、日々繰り返されるいざこざにウンザリすることもあるが、これはこれで意味のあるプロセスだとも思っている。大人の指示にシブシブ従うより、できれば子供たち自身でトラブルを解決してほしい。大人は白黒を裁きたいわけではない。ちょっと反省してほしい子にそのための静かな時間を作ってやりたいと思うのだ。できるのなら「さっきまで言い争っていたのに、おや、いつの間にか仲良く遊んでいるじゃんか」と、そんな場面を見たいと思っているのだ。人が集団で過ごす限り争いごとは避けられない。できることはそれを少しでも減らすことや大事に至らないことであり、そのための知恵を絞りだすことではないか。子供の次元で言えば《仲直りする》ことはとても現実的で賢い方法の一つだと思っている。仲間との関係をどのように処理するか、それは教科書では教えられないことなのだ。争いごとを糧として成長してほしいものだ。
十年も経ったころ、ポランの前に「お久しぶりッス」と言って一人のイケメンが立つ、彼女を連れて。かつて叱りつけたことのある顔である。なんだよオマエ、と言いながらダルマストーブの前にイスを差し出して思い出話や人生相談までする。そんなことを何度となく繰り返してきた。子どもはみな発展途上なのだ。