衣装を着けた子は劇に出て楽しんだ子、普段着の子は観客として楽しんだ子。
劇が終わった後はいつものように記念撮影。ちょっとこじんまりしてるかな?

新しい年を迎えて

「おめでとうございます」とためらいがちに言えば、必ず「でもねえ・・・」とか「とはいうものの・・・」という挨拶が返ってくる。そんな複雑な思いが交錯する新年の始まりである。

エイズやエボラなどウイルス性の感染症はもともと限られた地域にあった風土病の一種だ。それが人間の経済活動のグローバル化で、ジャングルの奥地から人によって持ち出された。われわれ現代人の豊かな生活が、地球規模で人や物が移動することで支えられていることを、このコロナ禍は、さあ、人間よ、どうする、と突き付けているのかもしれない。これまでの経済活動の在り方や暮らし方を考え直すいいチャンスかもしれない。一人一人が、衣食住の一つ一つの場面で考え直すこともあるだろうが、有能なしかるべき関係者に必死に知恵を絞ってもらう必要もある。ミサイル防衛は不要だとはいわないが不急ではある。一方、ウイルスなどの防疫に関する研究や医療は急を要す。国民の金をどこにつぎ込むことが有益なのか、そんな視点も、一人一人が考えるチャンスにしなければもったいない。そんなことを思う年初である。

鬼滅人気をちょと拝借

恒例にしてきた年末劇も、今年ばかりはやり方を変えざるを得なかった。なにしろ毎年、観客席は「超」が二つも付くほどに過密。子供たちが出番を待つ楽屋もギューギュー詰め。いつもと同じようにはできなかった。中止することも考えたが、楽しみにしている子もいたので、やり方を工夫した上で、とにかくやることにした。舞台に出る人数を減らし、劇に出ない他の子たちはキョリをとって座り、見る側になる。父母に公開することは、残念ながらあきらめることにした。

さて、具体的なやり方であるが、まず高学年だけを集めて、いつもより短めの台本を読み聞かせる。タイトルは「へそ曲がり婆さんと鬼」。読み聞かせたあと、いつもなら事前に決めておいた配役を発表するところだが、今回はオーディションにすることを発表した。出演者を募集するわけである。結果は、役の半分ほどに応募があり、応募者がなかった役はこちらから声をかけた。

鬼が登場する物語にしたいとは、夏の頃から考えていて、各地の鬼伝説を読みあさっていた。そんなころ、前回の当おたより2号で取り上げたように子供たちの作文遊びでボクの心に引っかかることがあり、アニメ「鬼滅の刃」のことを知ることになった。その直後に「鬼滅」の映画が大きな話題となり、その人気ぶりにあらためて驚かされた。そんなこともあり「鬼滅」の登場人物を数人拝借して今回の劇は出来上がった。


上:へそ曲がり婆さんと母親たち
下:閻魔王と役人たち

鬼滅の扮装をした人物たち

いつもなら、父母に観てもらうことを意識した演出、例えば、客席の後ろまで届くような声を出すことや棒読みの口調などをしつこく注意するのだが、今回は子供たちが劇遊びとして楽しめることを優先しようと考えた。DVDを作るつもりもなかった。ところが、DVDを作らないならやる意味がない、と子供たちから抗議を受け、それもそうだと思いなおしてDVDは残すことにした。劇中の豆まきからのつながりで、劇のラストで会場の子どもたちに向けて菓子をまくというサービスも付け加えることにした。

さて、今回の劇の中身については短いながらDVDがあるので見てもらうとして、来年の年末劇であるが、一年後、コロナがすっかり収束して、3密も解禁されているとはどうも考えにくい。来年も何らかの制約の中で年末劇の季節を迎えることになりそうだ。また何か楽しい劇遊びを工夫することになるのだろうか。


黒子

音楽係

照明係

ある日のポラン


黒い土をこねてパン作り。

駄菓子屋ごっこみたいなおやつタイム。

子供たちがいろいろな場所でいろいろな遊びをしている。2階建ての基地でままごとをする子。奥の草地で追いかけっこ。ハンモックに揺られる子、ターザンロープでスイングする子、竹を切って武器を作る子、元少(ハンドテニス)をする子、サッカー、五目並べ、宿題、読書、ちょんの横で縫い物、フップ(犬)と遊ぶ、ゴム跳びをする・・・。本当にいろいろな過ごし方をしている。しょせん囲われた場所ではあるが、広さもあるし沢や草地や森など変化にも富む。プールまである。学童保育所としては他に例がなく、これ以上ないほど恵まれていると、自賛したいようなある日のポランだ。


元少をする。今年は戸外で過ごす時間が一段と増え、一年生も女の子も、みんなが上達した。

竹を使って掘っ立て小屋を建設中。竹藪を整理したので、材料はふんだんにある。

鬼滅ブームに思う

「鬼滅の刃」について、社会学者や映画評論家たちがいろいろな分析をしている。高く評価するものが多いようだ。曰く、「レジリエンス(不屈の精神)に胸を打たれる」「全集中とは目の前の課題を全力で乗り切ろうということの暗示だ」「家族の恨みを晴らす犠牲的生き方に価値がある」「仲間との絆を描いていることは見逃せない」などなど。そういう深いテーマが込められているという分析だ。レジリエンスのことなど、ボクが以前から考え、書いてきたことでもある。しかし、へそ曲がりジイサンとしては、反感を買うことを覚悟で、問題だと感じていることを書いてみたい。

ボクが毎日子供たちと接するのは午後の、学校から解放された時間帯である。自由な遊びの時間でもあるので、そこでの子供たちは学校にいる時より、自然な行動とストレートな感情を表す。当然、様々ないざこざやトラブルも多くなる。イジメみたいなことや仲間外しもある。そんなときボクは、イジメられる側とイジメる側の双方の子の気持ちをあれこれ想像しながら、どのように対処するのが一番いいのか考える。複雑な家庭状況にある子の言動には特別な配慮をしながら見守ることもある。また、事件やニュースについて談笑することもあるが、そんな時に子どもの口から返ってくる言葉には親の意見や感想に影響されていることが多いといつも感じる。こんな風に、子供たちの気持ちについて、あるいは言動の背景にあるもの、影響を与えているものについて思いを巡らすことが日常的にある。この年齢の子供たちは、大人(親や教師)の価値観を敏感に受け入れる。その時々の世相や、テレビCM、人気アニメやゲームなどにも影響されやすい。それらを疑いもなく受け入れ、順応しながら、思春期以降に向かって徐々に自分の価値観や考え方を固めていく。だから素直だとか純粋だとか吸収力が旺盛だとも言われるわけである。

さて、前置きが長くなった。ボクの心に引っかかったものは、雨の日の作文遊びの中で幼い女の子が書いた一枚である。担任の教師が殺人鬼になって子供を殺すというストーリーだ。それ以外にも殺傷がらみのものが5枚に一枚の割合であった。おふざけが許される中で書いたという点を差し引いても、どこからこんな着想が生まれるのかと考えてしまった。そんな頃、ボクの目にとまったのが「鬼滅」の流血の場面だった。殺人鬼の着想の一端かもしれないと感じたのだ。作品にどれだけ素晴らしい主張が込められていようが、総合的にどれだけ感動的であろうが、ボクは単純にこれは殺し合い、流血とバイオレンスの物語だと感じた。どれほどの興行収入があり、どれほど経済効果に貢献しているのか、そんなことは知らない。作品を送り出す側の深遠で高邁で複雑な意図が、4歳5歳に、いや10歳11歳にもどれだけ伝わるか疑問だ。幼ければ幼いほど表層的に受け止める。バイオレンスから受ける刺激は、大人や若者とは比べ物にならないほど大きい。指の皮が傷つきほんのちょっと赤いものが見えると、血が出た出たと真剣な顔で言って来る。頭から一筋の血が流れると死んでしまうんじゃないかと大騒ぎする。それが幼い子供なのだ。ボクは、「感動した!」「涙が出た」と興奮して語る若者たちにまで、子供の気持ちを想像してほしいとは思わない。彼らはそういう立場にはない。ボクがちょっと考えてみてほしいと思うのは、親世代である。最近知ったのだが、この映画はR指定の12PG(12歳以下の子の視聴はピアレントのガイドが必要という意味)である。「鬼滅の刃」を見始めたきっかけは親が見ていたから、という理由が結構多いという現実を知った時、さらに考えさせられてしまった。

しかし、思えば「鬼滅の刃」が特に問題というわけではない。複雑怪奇で伏線だらけの、錬金術だとか魔術師だとか魔界・異界を描いた、子供の理解を超えると思われる物語は過去にもたくさんあるようだ。美しくて正しいものばかりがいいと言うつもりは全くない。それどころか暗く陰ったものを子供たちが垣間見る環境は残しておいた方がある意味健全だとすら思っている。問題は、大人と子供の生活の《境界》がなくなったことにある。大人が楽しんでいるものが即、子供の世界に入り込む。大人が食べているものと同じものを子供が口にする。身につけるものにも差がない。夜型の生活をする子供がいる。しかも5歳児と10歳の間にも区別はない。体も心も大人よりもか弱くやわらかな子供たちが、強い大人と同じ刺激に晒されることに問題を感じる。酒やドラッグや大金を、5歳の子が喜ぶからといって与える親はいない。体の問題だから《境界》が分かりやすいからだ。でも、スマホやネット、アニメや劇画だと何となく与えてしまう。それは心に関する問題で《境界》が見えにくいからだろう。見えない、分からないというだけであって、そこに問題が無いわけではないのに。

アニメもゲームも人の生き方もほとんどの物事が複雑化する。文明の進歩の必然であり宿命である。それを思うとき、子供たちの《早熟化》《老成化》という言葉が浮かぶ。大人びるのが早いということ。複雑な大人の文化に触れる機会が早くなれば大人の複雑な心理を理解し、大人的な感覚を持つ年齢が早まる。それは大人の悩みや苦しさも早く知ることでもある。「大人になんかなりたくない」と言う子も多い。もっとゆっくり子供時代を堪能させてやりたいなあと、ボクは思ってしまう。

一方で《世の中は水の流れの如し》という言葉も浮かぶ。何が子供の心に残っていくか分からない。上に『ある日のポラン』で書いたのはポランの日常である。ハンモックやターザンロープがあり、ままごとをし、ビワやクワの実を食べ、野イチゴを探す。のこぎりや金づちやスコップを使って基地遊びに夢中になる。焚き火を囲み、薪ストーブを囲んで竹を削る。それが楽しいと思うから、今の子にもそういう子供時代を過ごしてほしいと思い、それができる環境を探してポランを作った。現にこうして毎日、子供たちがいい顔をして遊んでくれている。卒業生たちも節目節目に顔を見せてくれる。その事実はボクに勇気をくれる。さてと、薪ストーブ用の薪を集め、竹箸や凧を作る準備を始めようか。