学校の野外劇に合わせるために保育時間が変則的になった日、お話を作って遊ぶことにした。何もヒントがないと書けないのでテーマを決めることにする。前もって子供たちに書いてもらっておいた言葉の中から、二つの言葉をランダムに選び出して上下に並べる。それを組み合わせると《もし○○が△△だったら》というテーマができる。例えば「つくえ」と「チョコレート」で《もしも机がチョコだったら》になる。「ネコ」と「せんぷうき」なら《もしネコがせんぷうきだったら》ということになる。他にも《もしホウキが犬だったら》など、普段は考えもしない想像の世界が広がる。自分で勝手な想像をしてもよいことにすると《もしスーパーマンが貧乏だったら》とか《グミに羽がはえていたら》とか《もしも小石が宝石だった》など、いろいろなテーマも生まれる。そんな中から、よくまとまっていたいくつかのお話を紹介する。
他にもなかなか面白いものがあった。自由な空想の世界だから、読書感想文が苦手な子も楽しく書けたようだ。ただ、気になったことが二つある。一つは、作文力が落ちていること。これは毎日、短い日記のようなものを書かせ添削指導すれば改善すると思う。それには家庭よりも学校がふさわしいのだが、忙しい先生にそれを期待するのはむずかしい。今は長い文を書く時代ではないようだが、文脈(語と語、文と文の筋道の通ったつながり)を理解するという基本の基は、読む、書くだけでなく、他人の話を聞くときにも必要なことだと思う。さらに外国語を理解するときにも同じことが言える。英語教育に力を入れるのも結構だが、同じくらい国語力にも目を向けることが大事だ。 もう一つ気になったのは、人殺しなど怖い話を書いた子が比較的多くいたこと。犬が殺し合ったり飼い主がその犬を殺したりする話とか、先生が殺人鬼だった話、ペットボトルのキャップで手や口が切れる話、ゴリラが車になって人をたくさんひき殺す話など、あまり読みたくないものがあった。ゴリラが自動車になるにしても、クラクションがウッホウッホ鳴るとか、ガソリンでなくバナナで走るなど、楽しい空想につなげることもできるはずだが、そうではなく殺人自動車にしてしまうときの子供の着想の底には何があるのか、考えてみた。 思いつくのは「鬼滅の刃」という人気アニメだ。この夏、ボクがベーゴマに一番多く描かされたのはポケモンよりもタンジローやイノスケ、ゼンイツといったキャラクターだった。今、男の子を中心に子供たちに人気があるのは、トトロやドラエモンのようにノンビリ、ホンワカしたものではなく、若者や大人の鑑賞にも耐える内容、つまり単純とはいえないストーリーをもった長編アニメである。仲間の絆とか希望とかきちんとしたテーマも盛り込まれているようだ。そうではあるのだが、タイトルの文字が象徴するように鬼との闘いや怪奇的な場面は多い。情緒的な場面になると集中力が途切れる年齢の子にとっては、武器で戦ったり怪奇的だったりする場面がより印象に残るのではないか。男の子がふざけ半分にお話を書こうとするとき、人気アニメで見たそんな場面の断片が着想に影響を与えることはじゅうぶん考えられる。おどろおどろしい話を書く理由の一つはそんなところにあるのかもしれない。 考え過ぎでなければいいと思いながらあえて書くのだが、子供たちが派手なケンカをしなくなったり、反抗的な子が減ったりしている傾向と、怪奇なものや血なまぐさいものを好むことに因果関係がないだろうかとも思うのだ。つまり、現代の子供たちが生きるエネルギーのようなものを無意識に抑圧しており、それが空想の世界で無意識のうちにバイオレンスやホラーのような形を借りて表れることはないかということである。子供は社会のバロメーターである。たかが空想遊びとはいえ、気にしないより、しておくに如(し)くはないと考えるのは老婆心、いや老爺心か。
最後に何となくユーモラスでホッコリする作品を一つ。
代休の日、むすび座の人形劇をみんなで観た。むすび座には過去、何度も来てもらっている。今回は、コロナのために公演会の依頼が減り、東海地方の先駆的な人形劇団が経営に苦しんでいることを知り、応援の気持ちもあってお願いした。
むすび座の演目には、以前は小学生や大人向けのものもあったが、最近は人形劇そのものが衰退し、出し物も幼児向けに絞られている。 今回の出し物の「ともだちや」も幼い子向けということだったが、むすび座の水準の高さを信じて選んだ。内容は要するに友達っていいものだという単純なことであり、登場するのもキツネやクマ、オオカミのかわいい動物の人形なのだが、ベテランの遣い手によって生きたキャラクターとして動き出し、高学年の子たちの目も引き付けたようだ。演者の方の話によれば、最近は小学生、しかも五、六年もいる前ではこの作品を上演したことがないということで、ポランの子がどういう反応を見せるか少々心配していたらしいのだが、予想以上に集中してくれたと喜んでいた。『集まれ動物の森』というゲームが人気らしいが、大勢の仲間と一緒に観た素朴な生の人形劇は、子供たちにとって『あつもり』とは別の新鮮なものだったかもしれない。前述の『鬼滅の刃』などとはまったく違うホンワカ、ノンビリした分かりやす〜い世界だが、こういう時間もこれはこれで必要だと感じた。
人間は互いに協力し支え合って生きている。そのために相手の気持ちを理解する。人の目に白目の部分が多いのも相手の視線や表情を読み取りやすくするためと言われる。それほどにコミュニケーション能力は人間にとって不可欠である。その能力を身につけるのは乳児から二十歳前後までの生活の中である。
今、オンラインで行われるものが急増している。便利だが課題もある。一番の問題はコミュニケーション能力を養うには不向きだということ。相手の表情を読み取ってこちらが反応する、そういう細やかなやりとりにはオンラインは適していない。大学生や高校生の知識だけの伝達なら効率的かもしれないが。
さて、ポランの年齢の子供たちは、仲間との共感、対立、もめごとの解決などリアルな体験を通して、教科書やオンラインでは学ぶことのできないコミュニケーション能力を育てる真っただ中にいる。楽しいことだけでなく嫌なことも含めて、この時期のリアルな仲間体験が子供たちを《人間》に育てるのだと思う。