先日、かなりの大雨が降った。豊橋市民の飲料水などの供給源の一つである宇連ダムの貯水率がゼロになった直後のことで、普通なら恵みの雨として歓迎されるところだが、それどころではなく被害の出そうなほど激しい降り方だった。ポランの前の水路も増水し、一本橋を通行禁止にしたほどの急流となった。しかし、ひどい被害が出たという話は聞かなかったので、結果的にはダムを潤してくれる雨になったようだ。
その大雨はポランの子どもたちに置き土産を残してくれた。学校から帰って来た子どもたちは、プールの横の沢にサラサラ、ザンザンと水が流れているのを見つけて歓声を上げた。そこは毎日のように誰かが遊んでいる人気の水場だが、いつもならチョロチョロとしか流れていないのに、その日は冷たい水が大量にあふれているのだから目が輝くのも当然だ。石を積んでも流される。いつもみたいにはいかない。雨樋で水の流れを変えようにもそれもままならない。ひたすら冷たくて速い流れを楽しんでいる。流れに差し入れたパイプの片方に耳をつけて「なんかオシッコの音みたい」と言う子がいるかと思えば、「あした、浮き輪持ってくるかア」とかいう一年生の声も聞こえて来る。
そんな子どもたちの様子はながめているだけで楽しいものだが、一方ではこんな時ですら、なにはさておき宿題をかたづけるのに余念がない子たちもいる。宿題最優先派の気持ちは古い世代の人間にはどうしても理解しがたいものがある。つい10年ほど前までは宿題を優先する子を見ると、親によほど強く言われているのかと同情していたが、5,6年前になると、親や先生の言いつけを従順に守る子が増えたのだろうと思い、最近では、宿題は嫌なことなどではなくむしろ楽しいことなのかもしれないと、その表情を見ながら思うようになった。ちなみにボクには夏休み以外、ほとんど宿題というものを出された記憶がない。昭和30年代の初頭はそんな時代だった。
カラスのエンドウという植物がある。この時期になると道端でも空き地の隅でも至る所で見ることができるマメ科の雑草だ。エンドウマメを小さくしたような実がなり、それが熟すと黒くなる。その黒い色がカラスのエンドウという名前の由来らしい。そのマメが黒くなる前のよくふくらんだ鞘(さや)を使って笛ができる。その笛はタンポポやムギの茎でつくる笛と違って、ただプープー鳴るだけでなく、上達すれば音階を吹き分けることができる。
子どもたちが草花で遊ぶ機会はめっきり減ったが、草笛を鳴らしている光景はどこかのどかで、忘れ去さられてほしくない素朴な遊びだ。草花遊びにもいろいろあるが、わざわざ教えることはなく、これまではたまたま散歩でもしていたり、たまたまその時そばに居合わせた子どもに教えるだけだった。でも、今年の春、タンポポを鳴らしていると、それどうやってつくるの?と寄ってくる子の数が多かった。いつの間にかタンポポの笛も知らない子が増えたように感じた。そこで簡単なタンポポはもちろん、音階が吹けるカラスのエンドウの笛の作り方をしっかり教えておこうと考えた。今年は4年生にカラスノエンドウの笛を授業のようにして教えた。豆の選び方に始まり、豆を割くこと、先端をしごいて開くこと、唇でどのようにくわえるのか、など丁寧に目の前で作って見せた。さあ、作ってみよう、ということになってもなかなかできない。どれがカラスのエンドウなのかを見分けられない子、鞘のふくらみ加減が分からない子、もちろんどちら側をどうやって割くのかなど、説明したはずのことがほとんど分かっていない。10分、15分たっても音の出る子はほとんどいない。たかが草の笛だが、子どもたちの体験不足を思い知らされる気がした。30分ほどの授業の間に、プーという音を出せた子が2,3人というところだった。
この時期にしかできない笛だが、自分で何度も作ってみて完全にマスターしてほしい。今年の春だけではできそうもないが、来年、再来年とこの授業を続けて、数年後には、上達した子たちを集めてカラスノエンドウの合奏をしてみたい。できるかなあ。
今日の月曜日は運動会の代休日。いつの頃からか恒例遊びになったダンゴムシレースをすることにした。レースはまず石の下をひっくり返して自分のダンゴムシを探すところから始まる。強そうなヤツや速そうなヤツを外形で見分けることができればいいのだが、それは無理なこと。それに、遊園地やイベント会場でよく見かけるブタやアヒルのレースでも人間の予想通りに走らないヤツは必ずいる。一センチ足らずの多足虫が期待通りに走ってくれるわけがない。当然のことだがこのレースは「出たとこ勝負」の「あなた任せ」のレースなのだ。
ベニヤ板に、直径1メートルほどの大きな円とその中心に直径10センチほどの同心円が描いてある。それがレース場である(写真参照)。出走は3匹ずつで、一位だけが次のレースに進める。小さな円に3匹を入れて透明のカップをかぶせる。カップをかぶせた段階ではその名の通りダンゴのように丸まっているヤツもいる。スターターのボクは3匹全部が足を出して動き始めた瞬間にカップを上げる。競馬中継でいうところの「ゲートインが完了して各馬一斉にスタート」である。外側の大きな円がゴールなのでどの方向に進んでもゴールラインはあるのだが、ダンゴムシレースの楽しいところは、なかなかすんなりとゴールラインを切らないヤツが多いところなのである。一直線に走るヤツはまれで、らせん状に進むヤツ、途中で止まってしまうヤツ、方向転換するヤツ、などいろいろいる。 中にはゴールライン手前までダントツで到達しておきながらラインを越えずにラインに沿って横に進み出すヤツもいる。馬主(虫主)が手を振って応援すると、その手の動きを察知して逃げるように曲がってしまうヤツもあって、馬主の派手な応援が逆効果になることもある。そんな動きの読めない、偶然が左右するレースを、何度も勝ち抜くのは簡単ではない。一度目は楽勝したヤツが次のレースでは全く走らないこともある。次のレースを待つ間に糸のように細い足を傷めたり、弱らせてしまうのだ。虫を粗末に扱わないようにすることも勝つためのコツとなる。そして何度かのレースを勝ち抜いて頂点に立ったのは纐纈ハヤト君(2)のダンゴムシだった。(背中に区別のためのテープがはってある。)
奥の草地にスケートボードのコースが完成した。今年は中級コースと初級の二つだ。上級コースもほしいところだが、挑戦する子が少なくなってしまったので今年はやめた。雪の上でするスノーボードは転倒しても痛くないというイメージがあるが、似たような遊びのスケートボードは舗装された場所でやるためか少し恐怖感がある。ポランでは合板をつないだコースだが、やはり転べば痛いしケガもする。初級の緩やかなコースから始めれば、転倒する直前に跳び下りることが自然に身につく。だから挑戦するくらいはしてほしいと思うのが、苦労してコースを作る者の正直な思いだが、まったくやってみようとすらしない子もいる。大きなケガは、ちょっと上達してスピードが出せるようになったり、つい油断をするくらいの余裕が出たときに起ることが多いものだが、強要するわけにもいかないので、密かに期待しながら待っている。
川崎市で、スクールバスを待つ生徒が襲われた。犯人が《引きこもり》だったらしいということが、同じような息子を抱える元エリート官僚の父親の不安をあおり、その息子を刺殺する事件を誘発した。引きこもりと殺傷事件の因果関係は証明されていないが、引きこもりの子を抱える高齢の親たちの間には動揺が広がっている。80歳の親が50歳の引きこもりの子の面倒をみることを《8050問題》という。学校になじめない、会社でうまくやれないなどの理由で引きこもる。その期間が長引くと、自分には生きている価値がないと思い詰めるようにもなる。親の経済力もやせ細る。解決はむずかしい。学校や社会の側に、もう少し大らかでゆっくりと生きていられる緩(ゆる)い雰囲気はできないものか。何度でもやり直しができる仕組みを作れないものか。経済と効率を軸にした成果主義と自己責任の世の中は、子どもや若者、女性や老人などにとってどうも生きづらいことが多いように思う。
川崎の事件はまた、子どもたちの命を誰が、どうやって守るのかという難題をあらためて突き付けてもいる。監視カメラや見守りの目を増やしても、計画的かつ周到に行われたら防ぎようがない。国の要人がやっているように、訓練を受けた大勢のガードマンたちに片時も目を離さずに子どもたちを警護してもらおうか。子どもだって要人だ。それが無理なら保育園のように保護者の責任で送迎するしかない。登下校はそれでよしとしても、刃物男が学校の中にまで乱入したら、暴走車が突っ込んで来たら、ブロック塀が倒れてきたら・・・心配の種は尽きることがない。
東日本大震災の後、《津波てんでんこ》という古い言葉が見直されるようになった。てんでんばらばらに逃げる、という意味で、自分の命は自分で守ることが肝心ということだ。自分が必死に逃げることで他の人にも避難を促し、みながそうすることで自分だけ助かることへの自責の念も薄らぐ。想定外の危険まで防ぐ万全策はない。あるとすればこの《てんでんこ》のように、何かあった時はまず自分の身を守れるようにしておくことではないか。身をかがめる、跳びのく、ダッシュする、などの判断力と身体能力を高めておくことが対策の基本にあったほうがいいのではないだろうか。
そこで頭に浮かぶのはポランの遊びである。ポランでは頻繁に格闘遊びが行われている。くんずほぐれつ、突き飛ばしたり押し倒したり、追っかけたり逃げ回ったり・・・。反射的な身のこなしやとっさの判断、素早い逃げ足など、考えてみれば《てんでんこ》につながる身体能力である。しかもこれほど日常的に闘っている子どもたちも珍しいだろう。ボンヤリしていると後ろから突き飛ばされる。勝てる相手なら闘う。そうでなければ逃げる。相手のわずかな守りの隙をついて宝を奪い去る。仲間を鼓舞し力を合わせて戦う。とにかく言葉に表し切れないほどの闘うための能力を、笑ったり泣いたりしながら知らず知らずのうちに身につけていく。ポランの子たちはそんな時間を20分、30分と毎日のように過ごしている。Sケン、サクラ落し、8の字、ヨーイドン、ネコとネズミ、スケボー…etc。素朴な昔の遊びには、ストレス解消だけでなく、護身能力を養うという現代的な意味が加わっているのではないか。たかが遊びかもしれないが、大人が他の理由で奪ってはいけない貴重な時間と体験だという思いがまた強くなった。