キョロロロロ……

豊かな時代のおやつ事情

ボクの子どもの頃は,都会の上流家庭は別として、普通の家庭にはおやつの時間というものはなかった。田舎の子どもは学校から戻ると、ふかしイモや砂糖キビを食べていたが、それがおやつといえばおやつだった。正月の頃は自家製のあられのようなものもあったし、秋にはラッカセイや干し芋なども食べた。家に何もない時期には、春ならツンパコやノイチゴを、秋ならムクの実やアケビ、グミ、クリなどを野山で探して食べることが遊びでもありおやつタイムでもあった。駄菓子屋が隣町に一軒あり、そこまではるばる出かけてあめ玉やクジ付のガムのようなものを買い食いすることもたまにあった。また、学校給食で食パンにイチゴジャムが付くときがあり、その甘くておいしかったことは今でも憶えている。とにかくチョコレートやケーキやアイスクリームなどは特別なもので、バナナなどは病気にならないと口にすることはできなかった。

ポランでは4時ごろにおやつの時間がある。鐘が鳴って、いろいろな場所で遊んでいた子がみんな部屋に集まって来る。大事な連絡をしたり、説教タイムになったり、誕生日を祝う時間になることもある。ポランで過ごす数時間の中で一区切りの時間であり、生活にアクセントを与える時間でもある。そのおやつだが、最近はアトピーやアレルギーの問題があることに加え、好き嫌いにもバリエーションがあり、対応に苦慮することも増えた。例えば甘いものについては、あんこ物、生クリーム、ピーナツクリームなどが苦手という子がいる。チョコレート味のものならOKでもチョコレートそのものはダメという子がある。その違いがよく分からない。どれも昔の子にとっては夢のようなお菓子でありその気持ちは理解しがたい。みたらし団子や三色団子の食感を嫌がる子、よもぎ味が嫌いという子も多い。その他、草加せんべいのように固いものや、フランクフルトの外側やサブレのようになんとなくパサパサしたようなものをもてあます子もいる。

以前は好き嫌いを許さないやり方をしていたが、一口だけかじったような菓子が草むらに捨てられているのを目にするようになり、好き嫌いを許さないやり方が食べ物を粗末にすることにつながっているのかもしれないと思い、申し出た子については量を減らしたり別の物を与えるように改めた。しかし、そうなると今度は食べたくない理由をアレコレ並べる子が増えた。さらに、嫌いなおやつだと分かると部屋に入ってこないケースも時にはあるようなことを耳にした。ついには、おなかがすいてないから要らないと言う子が現れるようになった。午後4時という時刻に本当におなかがすいていないのか、それとも嫌いだという別の表現なのか、分からないが、こうなってくるとさて、おやつとは何んぞや、おやつがはたして必要なのか、そんな根本から見直す必要もありそうだ。

もちろん、好き嫌いなく、誰もが文句なく食べるものもある。ゼリー、ヨーグルト、デイニッシュ、コロッケ、味ごはん、などだが、もう一種類ある。それはスナック菓子だ。子どもたちの駄菓子好きは昔とほとんど変わらない。遠足の駄菓子を楽しみにしている子は多い。昭和30年前後、口の中をまっ赤にして駄菓子を食べていた記憶がボクにもある。その頃から駄菓子は子どものおやつの王様なのかもしれない。貧しい時代はイモや木の実、やや豊かになって添加物がいっぱいの駄菓子、さらに豊かになって本物志向のクッキーやチョコレート、アイスやケーキが加わり、近年は添加物の少ないスナック菓子も出回るようになり、今、子どもたちが口にできるおやつは本当に豊かになった。嫌いのバリエーションが増えたのも、つい捨ててしまうのも、食べたくないのも、豊かで選べる時代になった結果なのだろう。

おやつ 思えば今の日本は不思議な国だ。テレビでは料理番組や各地のおいしい物やスイーツを紹介する番組が目白押しである。あるいは糖尿病や肥満の心配が成人だけでなく子どもにまで及んでいる。コンビニやスーパーでは賞味期限が切れた食材が大量に廃棄されている。でも一方では、三度の食事もままならない困窮家庭があり、無償で食事を提供する「子ども食堂」のようなものが広がっていると聞く。地球規模でみれば温暖化やプラスティックゴミの問題、水不足の問題、農産物も含む貿易をめぐる各国の利害の対立などがある。食の未来に不安がないはずがない。それなのにそんな危機感はひと頃よりむしろ薄らいでいる。

衣食住の中でも《食》は基本中の基本だ。健康のこと、地球環境のこと、世界の国々との関係のこと。《食》を入口にして、おやつを入口にして、それらについて考えることはできる。コンピュータと経済だけで将来の食糧問題が根本的に解決できるとは思えない。昔の人の教えをないがしろにして食べ物を粗末にするとどういうことになるか。豊かであることを多くの人が当然だと思いこんでいるようなこんな時代だからこそ、未来を担ってもらう世代と考える機会を持てるといいと思っている。

タスキで退化をくいとめる?

ちょうちょ結び(リボン結びともいう)ができない子がとても多い。高学年になるとさすがに数は少なくなるがそれでもチラホラといる。結ばせてみると何となくそれらしい指の動きはするのだが、引っ張る方向が逆だったり、どこを引けばいいのか分かっていない子が大半だ。結ぶ必要のない暮しの中で育っているのだから当然だろう。ポランの暮しの中で結ぶことがあるのは、夏休みの弁当の時、凧やパラシュート、ビュンビュンごまなどを作る時、基地づくりの作業時などだ。必要がなくなったとはいえ、できたほうがいいにきまっている。何とか生活の中で自然にできるようにならないものかと考えた。みんなで遊ぶ時、毎日のようにタスキを使う。二組に分かれた時に区別のために肩からかけたり、腰にしばったりする。これを利用することにした。実は昔、まだ子どもたちが普通に結べた頃は、いちいち結ぶことを面倒だと感じ、結ばなくてもいいように端の穴に通して引っ張るだけでタスキになるような工夫をしていた。おやつ今になって思えばポランも子どもたちの手を不器用にすることに加担していたことになる。それを反省し改めることにした。自分で結ぶようにし、できない子にはその都度手を取って教えることにした。少し続けてみると、やはりできるようになる。まだまだ、縦結びになっていたり、ゆるゆるだったりと、完全ではないが、これを続ければこの一年間でかなりの数の子ができるようになるだろう。使う必要がなくなれば能力は衰退する。ナイフもノコギリも自転車も火起こしもそうだ。歩くこと、漢字を書くこと、地図を覚える能力も、便利さと引き換えに退化する。30年後の子どもたちはさてどうなっているのだろうか。

野球とサッカーに思う

昔、野球やサッカーは確かに子どもの遊びだったが、今のように特定の日に特定の遠い場所で、大人のお膳立てでやる野球やサッカーが遊びといえるのか、ちょっと疑わしい。いつでもどこでも数人の仲間がいればできるのが本当の子どもの遊びではないだろうか。と、まあ、頭ではそう思うが、どんなやりかたであれ、子どもが楽しんでいるならそれは遊びだと、今はしておこう。ポランではここ数年下火だった野球とサッカーがここに来てやや復活してきた。笛を吹いてほしい、ボールを投げてくれと、頼まれることが増えた。ポランでの野球とサッカーの人気については40年の間に栄枯盛衰ともいえる変遷があった。男の子たちの関わり方についてみると、野球しかない時代はもちろん野球一辺倒。そこにサッカーが加わり両方ともやるのが普通の時代があった。サッカー少年が増えて毎日毎日サッカーをしていた時代が15年ほど続いた。その後、野球が盛り返したが、どちらも好きというのではなく、どちらか一方しかやらないという偏食の時代でもあった。やがてどちらの人気も下降してスポーツ自体が低調だった時代を経て、ここ1,2年で両方が復活しつつある。今は両方とも好きだという子と一方しかやらない子が混在している。

野球 さて、二つのスポーツについて思いを巡らすことがよくある。野球もサッカーもやってほしいと思うのだが、最近の子はどういうわけかなかなかそうならない。もっと分からないのは、小学校でサッカー部に所属しているのにポランではサッカーをやらない子の気持ちと、少年野球のクラブに入会して毎週練習をしているのにポランではやらない子の心理だ。好きだからとは違う別の理由がありそうだ。それはともかくとして、二つのスポーツの違いについて子どもの気持ちを考慮しながら書いてみる。まず、野球というのはつくづくむずかしい球技だと思う。小さな球を、思った通りの速さで思った通りの位置や高さで正確に投げることのむずかしさ。自分に向かって来る小さなボールに対して、高さや軌道や速さに合わせてドンピシャに細いバットで打ち返すことのむずかしさ。空高く上がったり、バウンドしているボールの速さや動き方を予測しつつ手の中にきちんと収めることのむずかしさ。野球はうまい子とそうでない子の差がよく目立つ。バッターボックスに立つ時、高く上がった外野フライを受ける時など、敵も味方も観衆も全員の眼が一人に集中する。うまくやれば拍手喝采であり、空振りや落球でもすればため息やブーイングである。上手な子にとっての「見せ場」は下手な子にとっての「見られたくない場」と表裏なのだ。自分の評価に敏感な子が多い昨今、目立つ場面が多い野球はなかなかハードルが高そうだ。 サッカー

一方、サッカーも細かなテクニックのことをいえばいろいろむずかしいことはある。ただ、テクニックの差は幼い頃はあまり目立たないものだ。野球のように会場中の目が一人に集中するようなことはPK戦を除いてあまりない。ボールを蹴りそこねてもすぐ次の瞬間、味方がカバーして(普通はそうなる)ゲームはどんどん進んでいく。観衆の目はすぐに別の選手やボールの行方に移る。エラーへの嘲笑が仮にあったとしても一瞬で終わる。野球のトンネルと違って一人のエラーが目立たないのだ。みんなで一つのボールをやり取りしている感覚があり、一人一人にかかる責任が野球よりも軽い。しかも上手な子はドリブルしてゴールを決めるなど見せ場は自分で作ることができる。逆に目立ちたくない子は隅の方で適当にやっていても何とか格好はつく。恥をかきたくない子にとっては野球より気分的に楽かもしれない。

スポーツといわれるものがプロ=マスコミ=商業主義と切り離せなくなった。プロスポーツの分野が広がり、テニスでもバスケットでもマラソンでもサーフィンでもプロの世界を目指すことができる。卓球やバドミントンでさえ、それで食っていくことができる時代だ。運動が得意な子には幸せな時代かもしれない。でも、一方で、スポーツは才能のある子だけがするもの、ユニホームを着てコーチについてやるもの。自分なんかとても・・・。そんな誤解が生まれているような気がする。才能があればあったで周囲の期待が重荷になって精神を病んだ子を知っている。スポーツはやはり観るよりするものだと思う。もっと気楽に、上手な子も下手な子も、男の子も女の子も、楽しいから、身体を動かすと気持ちいいから。そんな単純素朴な理由でスポーツをすることができる方がいいと思う。スポーツはしょせん遊びの延長なんだから。