ぼくのタコ

タデ食う虫が掘る穴

今、隣の空き地に大きな穴が口を開けている。もちろん子どもたちが掘ったものだ。穴を掘るということはとてもいい遊び?いや作業?かな、だと思っている。いつでもどこでもできることではないし、誰にでもできることでもない。だからできるチャンスがあったらやってみるといい。でも、穴を掘ることの楽しみをやったことのない人に理解してもらうことは、ウーン、なかなかむずかしい。

穴を掘るには体力がいる。道具の使い方に工夫がいる。とにかく疲れる作業だから忍耐力が要る。最初のうちはだいたい土が固くてなかなか進まない。少し進んだところでスコップの先がカチンと石に当たることがある。意外な場所に木の根っこがあることもある。そういうものを根気よく取り除く。少し掘り進むと土の色が変わって柔らかくなる。でも、間口が狭くて掘りにくくなり、スコップが思うように動かせない。そこで間口を広げたり、スコップの角度を変えたり工夫をする。そうやって膝の深さほどまで掘ることができればまず上出来だ。そうなるともっと掘りたいと思うようになる。そこからの作業は案外はかどるのだが、腰の深さまで掘る前にだいたい限界が来る。スコップの長さや根気、体力に限界がくるのだ。

子どもたちが掘った穴

さて、穴を掘る楽しみについてだが、言葉にならないものをあえて言葉で表現してみると、まずは達成感。自分が注ぎ込んだエネルギーと時間と汗の結晶が目の前に口を開けている。達成感が口をあけているようなものだ。そして次は癒し。自分の手で掘った穴の底に座り込んだ時に感じるのは、土のにおいとほっこりとした温もりと周囲の音が消えた静けさ。上を見上げると丸く切り取られた青い空とそこを時々横切る白い雲。何とも落ち着く空間だ。最高の癒しの空間かも知れない。上に板のフタでもかぶせれば秘密の地下空間になる。じっとしていると様々な空想で頭の中はいっぱいになる。空想の中身は人それぞれだが、雑念の入り込みにくい最高の空想空間であることは間違いない。

(*穴掘りには危険が伴う。どこでも掘っていいわけでもない。深い穴を掘っている連中を見つけるといくつか注意する点を伝えるようにしている。)

子どもに励まされつつ続ける

一年生に初めてナイフの使い方を教える。細工物には乾燥した竹がいいのだが、乾いた竹は堅くてとてもじゃないが子供の手には負えない。だからポランでは藪から切り出したばかりの青竹を使うことにしている。

ナイフの使い方

まずは手本を見せる。ゆっくりとそしてじっくりと観察させる。最初は見るだけ。言葉で説明するのはその後だ。門前の小僧の喩えのように、習わなくても見よう見まねで分かることを目指す。吸収力や洞察力を養うには、昔の職人たちのように「盗んで憶えろ」式がいい。教えられ過ぎている今の子どもたちは、吸収力や洞察力に欠け、結果ばかりを求め過ぎる。だからポランでは敢えて《不親切》を大切にしている。観察の後、ナイフの持ち方、竹の動かし方、ケガをしないための注意など、最低限のことを言葉で伝えて、実際に作り始める。一年生たちの手は年々拙さを増している。今年もまた一段と手つきはおぼつかなくなったようだ。このプロブラムも2年生からにしようかという思いが頭をよぎったが、ボクのその後ろ向きの気持ちは、遅れて下校してきた2年生たちがすぐに吹き飛ばしてくれた。ランドセルを置くなり竹を削り始めた2年生たちの手つきの何といいこと。一シーズンでここまで上達できるようになるというお手本が目の前にいる。難しいからと、大人が弱気になってハードルを下げた途端、子どもたちの克己心は本当に下がってしまう。猛省。

ただし、つい後ろ向きになってしまうには理由がある。手がイタイ、面倒だ、という理由でやりたがらない子どもがジリジリ増えている現実がある。つい十年ほど前の子どもと比べても、箸けずりを嫌がる子は増えている。指一本で何でもできる便利な世の中になっているのだから何事においても、手間暇のかかることや痛みを伴う苦行のようなことをやりたがらないのは当然だろう。でも、こういう作業のプロセスは、失ってはいけない何か、人が生きていくことを心の深いところで支えてくれる何か自信のようなものが育つ可能性を秘めていると、ボクは考えている。だから、子どもたちのためにもボクたち大人が弱気になってはいけないのだ。子どもたちに申し訳ないのだ。思えば今やポランのプログラムはどれも大人がちょっと後ろ向きになってハードルを下げると消えてしまうものばかりになってしまったようだ。

ボクはどこに

子どもたちの前で話をする時、ボクは必ず「こっちを見なさい」と言って、待つ。しつこいくらいにそうしている。それは、子どもたちたちが学校の勉強で少しでも苦労をしないですむようにしてやりたいからである。

長く学習塾で中学生を教えていたボクは、子どもの理解力の差(=成績の差につながる)はどこから来るのか、という難題に頭を悩ませることが多かった。至った結論は《授業をまずよく聴く》という基本中の基本であった。それができている子とそうでない子の差が理解度の差となり中学までの間に積もり積もっている。解きほぐすのは容易ではない。よく聴くことができるためには言葉が理解できなければならない。そして説明されている事柄についてイメージを創り「なるほど。そういうことか」と納得したり、「まてよ、ちょっと変だぞ」と疑問を持ったりしながら相手の話に遅れずに着いていくことができなければならない。そのためには、自分に話しかけている相手の方に顔と耳を向けるという動作が反射的にできることがまず必要なのである。顔を向けることで理解のための心の準備ができるのである。

さて、ある日のポランで、みんなを集めて次のような指示をしたときのことである。「三人ずつ集まってジャンケンをします。一番勝った人はこの木の下へ集まります。二番目に勝った人はサッカーゴールの前へ、一番負けた人は向こうのサッカーゴールの前へ集まります。」これを、言葉を変え、補ったりしながら、ゆっくりと3,4度繰り返した直後にある子が、「ロクさん、ボクはどこへ行けばいいの?」と言ってきた。こういう子がいるだろうことを想定したからこそていねいに説明したのであるが、やはりダメだった。こういう子は必ずいる。しかも最近、増える傾向にある。

実は、この場合には《顔を向けて話を聴く》こととは別の問題が潜んでいるようだ。話し手の声は耳に入っているのだが《自分のこととして受け止めていない》ということである。つまり、ジャンケンをするのも、サッカーゴールの前に移動するのも、これから自分の身に起ることだと受け止めていないのだ。幼い子にはあり得ることのようだが、どうもそればかりではなく、現代の子に見られる新しい現象のような気がしている。つまり、情報を素通りさせてしまう習性ができているように感じるのだ。子どもといえども日々、自分事でないたくさんの情報(※テレビの番組はどれも自分に向けて発せられた情報ではない)が頭の上を通っているわけで、自分と目を合わせることのないテレビから送られてくる情報を笑いながら漫然と聞き流す習慣がついてしまっている。さきほどの子に、マンツーマンで同じことを話せば一度できちんと分かる。だから言葉が理解できないわけではない。できないのは自分のこととして受け止めることなのだ。大勢の中のひとりとして聞いている時は、前でしゃべっている人の話をボンヤリと、テレビを見ている状態と同じように聞き流しているのだろう。「いいかい、みんな」と言われたときの「みんな」の中に自分は入っていない。だからみんなが動き始めたときに初めて、アレ?ボクはどうすればいいのかな?と自分だけに向けた指示を求めることになる。

AIロボットを東大に合格させようというプロジェクトがある。かなりの水準に到達しているのだが、英語と国語でつまずいているという。脈絡のある言葉を論理的に理解し処理することがむずかしいからである。ところが、それができないのはAIだけではなく、何と人間の子どもたちも読解力が落ちているということが判明した。その原因は情報過多の中で育っているために言葉を素通りさせることに慣れているのではないかというのである。『SNSやスマホ時代になった大人たちにもその傾向が見られ、長い言葉をじっくり理解するよりも、『イイネ』に代表されるように、短い言葉で情報をやりとりするのが現代人の傾向らしい。

話を戻す。子どもたちが学校の勉強で少しでも苦労しないですむようにしてやりたいと思う。中高生になって、成績を上げたいとかあの学校に進学したいとか、意欲が芽生えたときなら別のやり方があるが、それ以前の幼い子に必要なことは、第三者が語る言葉、つまり自分に向けたものではない指示やストーリーを理解できる能力であり、そのための第一歩が話し手の方に顔を向けるという行動を反射的にとることだと思っている。その先にある「大事な情報も聞き流してしまう問題について言えば《大人の今は子どもたちの明日だ》ということを肝に銘じるしかない。

ムーミンの国の教育

OECD(経済協力開発機構)が定期的に行っているPISAという学力テストがある。その順位は各国の教育政策に微妙な影響を与えている。日本が、「ゆとり教育」を止めるきっかけになったテストでもある。2003年頃のことである。そのテストでいつも上位にいるのが北欧の小国フィンランドだ。フィンランドといえばムーミンの国でありサンタクロースの国である。昔から高負担高福祉の国として有名で、税金は高いがその分、子どもから老人まで手厚い福祉を受けることができる。2018年の幸福度ランキングは世界一位である。ちなみに日本は五十四位である。

フィンランドの教育を一言で言えば、国民がすべて平等であることを実現し保障していくための教育だといえる。国民の多くが幸せだと感じているのは結局、国がそれだけ国民のことを考えた教育をしている成果なのだろう。また、資源に乏しい小国ゆえに、国民を貴重な資産だと考え、優秀な人材を育てることに力を注いでいることも根本にある。ダメな国民を育ててしまったら国が立ち行かなくなるわけである。具体的には、まず教師の質が高いことが大きいようだ。教師は尊敬され多くのことを託され任されているので意欲的になれる。労働時間も少なく授業以外の雑用もない。子どもたちの学習意欲も高い。授業は、理科の実験とか編み物や木工など体験重視型だ。黒板、エンピツ、ノートが中心の授業より楽しそうだ。授業時間数は少なく、夏休みは二か月半ととても長い。必要がなければ宿題やテストもない。学校で個別指導があるから塾や家庭教師の必要もない。勉強漬けでないので勉強に対して新鮮な気持ちで臨める。理解が遅い子には手厚いフォロー体制が用意される。そのための専任教師がいたり、小学生でも留年がある。留年はかわいそうでも恥でもなく、分からないまま進級する方が困ることを子ども自身が知っている。さらに、図書館が充実しており、子どもたちの読書量が多いので、言葉の力、論理的な理解力、読解力が幼いうちから養われる。PISAのテストではこの力が大きく発揮されるようだ。

近年、PISAでは日本も成績をやや上げているようだが、順位にこだわるところに日本の教育の問題点があるような気がする。国の成り立ちや歴史が違うことをふまえた上で、日本に合ったやり方で、子どもたちの幸福度を上げるための教育ができれば一番いいのだが、国の決めることなので簡単ではない。