劇のクライマックス。魔物たちが叫ぶ。「偉い坊さんを食うぞ!」「長寿鍋にして食うぞ!」「ブタも食うぞ!」。三蔵たちの身に危機が迫る。そこへきんと雲に乗った悟空がかけつけ、魔物たちを退治する。そして三蔵、悟空、八戒、悟浄らの長かった旅もついに終わりを迎える。
昨年末の「劇と餅つきの会」も例年通り大勢の人が集まった。かつては、子どもたちが手作りの招待状を友だちや学校の先生たちに配っていたこともあった。今は現役の父母に日時を知らせるだけである。それでも会場はあふれるほどの人で埋まり、それを見た子どもたちは一段と嬉しそうに「孫悟空」を演じた。
あらためて台本を読んでみる。ひどい言葉が飛び交っているものだ。「ブタ野郎」「このチンチクリンのサルめが」「カッパの化け物じゃないか」などというセリフが随所に出てくる。考えようによっては問題発言だらけだ。西遊記がそもそも、サルやイノシシやカッパや妖怪が続々と登場して闘うお話なのだという共通理解がなかったなら、許されないところかもしれない。加えて、これはポランだからこそ成り立つ劇なのか、とも思う。つまり、普段から異年齢の激しい遊びにもまれているポランの子どもたちだからこそ身につけているある種の懐の深さ、受け流す力、回復の早さなどがあって初めてできる劇なのではないかと、思うのである。
配役が発表された当初、ひとりひとりの子どもの心の中には、いろいろな感慨があったはずだ。喜んだ子もいれば、中には不服や落胆を感じた子もあっただろう。でも、練習を続けるうちに、いつしかその子でなくてはならない役となり、本番のフィナーレを迎えたときには誰もが満足げな笑顔を浮かべていた。充実感にあふれていたように見えた。子どもたちに、ちょっとつらいことやちょっとイヤなことを我慢させる以上、乗り越えた先に必ず喜びや充足感という報酬があることが望ましい。今回はそこまで到達して終わることができたように思う。子どもたちに、そして観客に、卒業生たちに、お天気に、感謝と拍手を送りたい。
今年は正月らしく居住まいを正してポランのことを考えてみる気になった。というのも、写真展のおかげでたくさんの卒業生たちと久しぶりに再会し、成長した彼らと話すことがあったからだ。話は必然的にそれぞれの近況と、ポランで過ごした日々についての思い出話になった。そして計らずもそれは、ボクにとってポランのこれまでと今、そして今後を考える機会ともなった。
卒業生やその親たちが書き残してくれたメッセージカードやノートには、予想を超える称賛の言葉がつづられていた。《とても大きなものをもらった/ポランで自分という人間ができた/なぎの木での生活が今の自分を作っている/この写真の頃が今の仕事のベースになっている/ポランで過ごした日々は宝物/ここで経験したことは一生の宝/6年間は全部宝物/自分の子どももポランに入れてこんな風に遊ばせたい/ポランの経験は今の自分に役立っている/かけがえのない時代だ/誇りある6年間だ/ポランは昔も今もずっと好き/ポランにいた時代が人生で一番輝いていた/ここにいられたことはめちゃくちゃ誇り/本当にここは宝物がいっぱい/私の人生で宝物のような時間/ポランのおかげで今があると自信を持って言える/ほんとに貴重な体験をさせてもらった/小学生のころメチャクチャ楽しむことができて最高の思い出/ポランは毎日唯一の楽しみだった。》
宝物とまで言われるのは嬉しいが、古い世代のボクには意外な感じもする。昔の、学童保育所などない時代、ほとんど日本中の子どもが同じような遊び方をしていた。その頃と同じことをしているに過ぎないという思いがボクには常にある。だから宝物という賛辞には面映ゆさを感じてしまう。卒業生たちの話から察するに、自分の子ども時代がどうも特別に楽しくて豊かなものだったことを大学生や社会人になって初めて知り、それがなぎの木・ポランでの生活にあったことに気づき、今回の写真展であらためてその感を強くした、ということらしい。世の中から《昔の遊び》が消えたことでポランの希少価値が高まったという「棚ぼた」のような話ではあるが、称賛の言葉を半分に割り引くとしても、ポランの遊び方には今や普遍的な価値があると解釈してもいいのかもしれない。誇らしさも感じるが同時にある種の責任の重さのようなものも感じる。
さて、正月ならではの対談番組や新聞の特集をみると、多くの専門家や評論家たちが指摘するのは、これからはAI(人工知能)の時代であり、政治も自然災害も先が読めない時代になるということだ。日韓も米中も微妙な関係にある。中東も欧州も危なっかしい感じがある。スマホ依存社会がどんな中毒症状を呈するのか、予測ができない。先が見えない時代、不確かな時代だというのが大方の予想だ。では確かなものとは何なのか。
《体でおぼえたものは忘れない》と言う。手先指先、皮膚、身体全体に沁みこんだ感覚は生涯記憶に残る。つまり、一番確かなものは自分の感覚なのだ。借り物やにわか知識でない、自分の五感で得た感覚だ。不確かな大人社会に放り込まれる前の、感受性の鋭い子ども時代に、確かな感覚を体感してほしい。ポランのやり方にもその可能性があるかもしれない。卒業生たちの言葉はそんなことを示唆しているような気がする。