今年の紅葉は台風による塩害のためかあまりきれいではない。落葉のしかたもいつもと違う。ポランのケヤキもいつもより早い時期にほとんど葉が落ちたが、一部は茶色くなったまま十二月になっても残ったままだ。そこに薄緑色の若葉が芽吹いている。秋に桜が咲いたというニュースも多かった。この地域一帯に停電があった台風だが、ポランにも多少の被害があった。畑の小屋が吹き飛ばされて壊れ、比較的大きな檜(ひのき)が二本倒れた。子どもたちがよく遊ぶ場所だったので、急いで処理することにした。
チェーンソーを使っての作業には危険が伴う。真っ直ぐに立っている樹木をただ倒すのにもいろいろなことに注意を払わなければならない。台風で倒れた場合はねじり倒されていることがあり、切断したとたん予想外の方向に跳ね返ることがあるので、より細心の注意がいる。しかも枯れ木とちがい生の木は重い。人の腕ほどの太さの枝でさえ、まともにぶつかれば骨折など大怪我につながることもある。チェーンソーの刃が挟まれないよう、跳ね返りがないよう、周囲で作業する人間に危険がないよう、ロープで牽引したり、いろいろな危険を予測しながら、とにかく慎重に作業を進めなければならない。結局、お昼近くまでかかってなんとか枝を落とし、人力で移動できるように1メートルほどの長さに切断しておいた。土止めに使いたいと思った一本は、5、6メートルの丸太で残した。
大きな丸太は重機でないと動かせるものではないが、ポランにはとっておきの重機がある。それは子どもたちである。子どもとはいえ数が集まれば大した力になる。大きな力が必要なときには昔から時々、子ども重機を利用してきた。動かしたい大物にロープを縛り付け、コロやテコと組み合わせながら引っ張ってもらう。方向や力の入れ方を指示しながらやるとけっこうできるものである。軽トラックより大きな力が出るかもしれない。今回も子どもたちが学校から戻って来るのを待って、午前の作業で残しておいた大きな丸太を引っ張ってもらった。折から学校では野外劇の練習が続いている。今年の出し物「ダイダラボチ」には、田んぼに横たわった大きな岩を村人がみんなで「ヤーレ引け。ソーレ引け」と、縄で引っ張る場面がある。これ以上のグッドタイミングはない。作業のやり方を知った子どもたちが大喜びでロープに取りついたことはいうまでもない。
今回の風台風の被害は石巻山のふもとはもちろん、山の中にも及んでいた。野外劇の代休の日、久しぶりに山に登ることに決めていた。いつものように午前中に山頂までを往復する予定で出かけたのだが、登山道へ一歩入ったところから倒木に阻まれることになった。ポランで利用している枝道には想像を超える数の倒木が横たわっていた。子どもたちはその下をくぐったり、乗り越えたり、回り道をしたりしながら進まなくてはならず、倒木が一番多かった急な上り坂を通過するのに、いつもの倍ほどの時間がかかった。そのためポランに帰り着いたのは1時近くになってしまった。弁当をポランに残して出かけたので、おなかをすかせた子どもたちはすきっ腹をかかえて帰って来ることになった。
子どもたちを苦しめた倒木はテイダマツという外来の松だ。真っ直ぐに伸びる松で成長も早く、タケノコのようにニョキニョキという感じで育つ。その松がここ数十年の間に石巻山中の多くの場所に松林を作りだしている。山を遠くから見るとモコモコと樹木が盛り上がった場所が何カ所か見える。山道を歩いている場合ならたくさんの松葉と大きなマツカサがゴロゴロと落ちている場所がある。それがテイダマツの林である。この松は周囲のシイやタブより背が高く、おまけに根張りが浅いので、今回のような強風を受けると将棋倒しのように次々と倒れる。木材としての価値はほとんどない上に、背が高くなるとこうして倒れて邪魔になる。困った存在である。そんなテイダマツにもいいことはある。この松のおかげでポランの松葉ソリは継続できているし、マツカサでクリスマスツリーを作る楽しみもくれる。
さて、登山道だが、ポラン以外の人はあまり利用しない脇道なので、倒木の処理を行政に頼んでもやってくれそうもない。でも誰かが整備しないとあのまま(写真参照)になる心配がある。さて、どうしたものだろうか。
十一月三日は文化の日だが、この十数年、ポラン的には親子合戦の日となっている。今年も大勢の親子が集まった。
合戦の始まりは「渦巻きジャンケン」から。単純でどんな時でもつい続けてしまうのがジャンケン遊びのいいところだ。大人チームは出足(第一セット)こそよかったが、結局逆転されてしまった。続く「王様ドッヂ」では、父親たちにハンディが課されていて《むかし取った杵柄》とばかり男の剛速球を見せつけるわけにはいかないが、ヒントを頼りに相手の王様を探す面白さが加わってそれなりに楽しめる。結果は大人チームの勝ち。その後は「お助けマン」、「さくらおとし」「集団ジャンケン」と続く。午前中のここまでで大人は一勝、子ども三勝。大人組の敗色はすでに濃い。昼休み中のおまけのサッカーの後は、「ポラリンピック」と「野球」が続く。野球は今でも現役でやっている父親もいるので文句なく勝利できたのだが、問題はポラリンピックだ。ポランの子が日頃から遊んでいる竹馬、ビー玉、コマ、けん玉、一輪車などを競技に取り入れているのだが、今の若い親たちが子供の頃にはすでに消えていたような遊びも多く、見たことがある、やったことはあるけど・・・という親が多い。その程度では、竹馬で風のように走る子どもには到底かなわない。来年は、前もって親の体験会でもしてから合戦に臨もうか。
そんなわけで今年は四勝二敗で子どもチームの勝ちとなった。運のみが勝敗を分けるジャンケン種目で勝ちを拾えなかったことが大人チームの大きな敗因のようだ。通算でも九勝十三敗三分けで子ども組が差を広げた。合戦と銘打っているので、対戦成績という結果は数字で残るが、もちろん行事の目的は勝敗よりも親子が楽しく遊ぶことにある。その意味では、気持ちの良い季節に晴れた空の下で親子の笑顔が絶えない時間を過ごすことができたわけで大成功である。これまでまだ一度も参加していない父母の方は来年は是非、この妙な楽しさのあるポランの運動会に参加してみてはいかがだろうか。
年末劇が発表された。今年は七年ぶり、四度目の再演となる『西遊記(孫悟空)』である。いつものように台本が全員の手に渡ったところで、大人四人で全ての登場人物を読み分けて子どもたちに聞かせる。どんな物語なのかを頭に入れてもらうためだ。昨年まではこの時間を楽しみにしている子も多く、集中して聞いてくれたものだが、今年はなぜか一部の子がざわついていて、途中で読むのを中断して注意したほどだ。読み物としてより、劇の台本として書いてあるから、登場人物たちの会話を通して物語が進む。そのやりとりからストーリーの進展を思い描く力がないと話についてこれないのかもしれない。会話の中の言葉は必ずしも低学年向けにやさしく書いてあるわけではないので、想像力で補うには少しむずかしかったのかもしれないと、後で思った。
何とか最後まで読み終えて、いよいよ配役を発表する。事前に大人たちで打ち合わせある。一つ一つの役についておもむろに発表していく。この劇にはほとんど出ずっぱりでセリもたくさんある役が五つもある。この子ならできそうだと思う高学年の子に当ててある。発表されるたびに歓声が上がる。今の子は大きな役ほどやりたがる。セリフの少ない役だとガッカリする子の方が多いような気がする。六年生には黒子や音楽、照明など裏方をしてもらうことが恒例になっている。セリフのある子もない子もいる。低学年の子は出番が少なくなる。七十人に一人一役を考える苦労に免じてゆるしてもらいたい。
さて、劇の練習だが、全員が顔をそろえた練習がしやすい学校と違って、四時過ぎに戻ってきて、おやつを食べたり宿題をしたり、遊んだりする間を縫って練習するしかないのがポランの宿命である。しかも欠席したり習い事で早く帰る子があったりで、そもそも顔がそろうことがない。小さな場面ごとに出演者を別室に呼び入れ、欠席の子の役はボクが演じ分け、少しずつ少しずつ細切れに練習をする。そうやってパーツを完成させておいて、通し稽古ができる冬休みに入ったところで一気につなぎ合わせることになる。パッチワークのような練習をするわけである。主役級の子には厳しいことも時には言うが、基本的には楽しく練習ができることをこころがけている。今の子どもたちが出たがり屋ということもあり、子どもたちは別室に呼ばれることを楽しみにしてくれている。それが練習を強制的にさせるボクにとっては大きな救いでもある。
この劇の練習については思わぬ効用がある。それは、この練習の時間が、どちらかというとおとなしいタイプの子も含めて、ほとんどの子と面と向かって言葉を交わす時間になることである。目立つ子や積極的な子とは普段から接点が多いが、無口な子や控えめな子や、一人で遊ぶタイプの子とはどうしても日常の中での接触は少なくなる。劇の練習時間がそんなマイナスを補ってくれるのである。劇を上演して親に見てもらうという楽しみから生まれる副産物であり、貴重な時間ともなっている。
日産自動車のカルロス・ゴーンCEOが逮捕された。有価証券報告書の虚偽記載だとか、数億円を不正に流用して豪邸に住んだり豪遊したり、ペーパーカンパニーを通して数十億の不正があったとか、庶民には縁の無い世界だとは思うが、日産自動車の末端の工場労働者の中には憤りを感じる人もいるのではないだろうか。
英語はもちろん、プログラミングを身につけ、AIを駆使できないとこれからの世の中は生きていけない。そんな気分が世の中に広がっているような気がする。将来を考えると我が子にもそのための教育や習い事をさせなくては、と思う父母がいるのも当然だ。便利なソフトや楽しいアプリなど、コンピュータの世界はアイデア一つで起業でき社長にもなれ、大きな利益を上げることができる。しかし、ふと心配になる。もうかることを最優先する人間ばかりになってしまうのではないか。楽しいこと、大事なこと、人のためになること、を求めて将来の道を考える若者がいなくなるのではないか。農業や漁業、もの作りや教育・福祉の現場で汗を流す人間が優遇される社会の方が、みんなが楽しく暮らせるのではないか。しかし、どうもそうなっていかないように思う。
格差社会は不安定社会である。今、世界は、少数の金融関係やグローバル企業のトップと、多数の一般庶民との収入格差が広がっている。それが暴動や過激な行動につながっている現実がある。もしもゴーン氏が、億に近い月収でも満足できないとしたらもはや金銭感覚が狂っているのではないか。起業しようとする若者には、良い製品を作ってもうけ、得た利益を社員や社会にも還元するような会社を作ってもらうことを期待する。