秋晴れ

すっかり秋になったが、夏休みのことで書き足らないことがあるので、今号も季節外れの夏の話である。

2年先の笑顔

今年のサイクリングはこれまでと違い3年生以上の参加にした。子どもたちがあまり自転車に乗らなくなったことが背景にある。普段から自転車に乗り慣れていないと長距離を走る時に余計に疲れるようだ。それをボクは《自転車体力》と名付けている。長年、大勢の子どもたちと自転車の遠出をしてきて、普段とは別の体力が必要なのではないかと感じている。ハンドルを握る上腕の力やサドルに腰を掛けた状態で漕ぎ続ける下肢の力、それは自転車を巧みに乗りこなすだけの力とは異なるもののようだ。乗れるには乗れる、とか、何とか乗れる、程度の子が多くなっている現状を考えると、片道3、40分の隣町へ行くだけのこととはいえ、自転車体力が心配である。坂道があったり、炎天下を走ることを考えると、3年生は何とかなるとしても、1、2年生はこの際、無理をさせない方がいいと判断した。

サイクリング

さて、道中はタイヤの空気が抜けるトラブルが一件あっただけで、これまでより短い車列はスピードも速く順調に進んだ。これまでなら本坂峠に向かう緩やかな登り坂にさしかかると、立漕ぎができない子はつらくなり、降りて歩き出したり、泣き出したり、中には座り込む子もあった。今年はそんな子もいない。上級生はノロノロペースにイラつくこともなくなった。引率する側の苦労も半減した。いろいろ楽になったことはあったが、本当にこれでよかったのかという思いもある。これまでの1、2年生が泣きながらでもやり遂げ、そのことで小さな自信をつけた行事である。往路に見せた涙と復路に見せてくれる満足げな顔を見ながら、ボクは夏休みの子どもたちの確実な成長ぶりを実感したものである。歴代の子どもたちの多くが『夏休みの最後のプログラムだからゼッテイ行きたい!』と言ってくれることに大いに元気づけられてボクはポランを続けることができたような気もする。そんな一大行事の変更は、ただハードルを下げただけで、子どもたちの軟弱化にまた一歩加担してしまったことにならないだろうか。そんな思いがくすぶっているのである。

ただし、今後も続くであろう酷暑の夏や、子どもたちの自転車事情を考えた時、来年以降も今年と同じようにする方がいいことは間違いなさそうだ。ま、自信をつけた1,2年生たちの笑顔は、3年生になってから見せてもらうとしようか。

洞窟でハピバースデイ

洞窟でハピバースデイ

サイクリングの目的地は嵩山の蛇穴。蛇穴に到着した子どもたちは、いつものように外の光がまったく届かない天然クーラーのきいた洞窟を出たり入ったりして遊ぶ。今日、誕生日を迎えた子が二人いた。事前に分かっていたのでキャンドルとクラッカーを用意していた。暗闇我慢記録に挑戦した後、二人のバースデイを祝った。キャンドルを一本立て、歌を歌い、懐中電灯を消した闇の中でクラッカーが爆ぜた。カラフルな紙テープは見えなかったが火薬の光は見えた、はずだ。何せ洞窟の闇の中、どの方向に目を向けていれば見えるのか、それも分からない状況の中である。まばたきをしてしまった子も見えなかったわけで、クラッカーの光が見えた子は貴重な体験?だったかもしれない。

信じて任せて育つ

もう一つサイクリングでのこと。

この日、小学校のバスケとサッカーの練習がサイクリングとダブっていた。女子のバスケの子は早々と欠席することを学校に伝えてきたのだが、男子のサッカーはどちらにも参加したいと言って来たので認めることにして、その旨学校に伝えた。そうまでして参加したいという意欲に応えてやりたかった。

ところがそうなるとサッカー部だけ別行動しなければならなくなる。そこで前の日にサッカー部を集め、蛇穴までの道順を伝え、必ず全員がまとまって行動することなどをよく言い聞かせておいた。そして当日、一足先に着いた子たちが遊んでいる洞窟の前へ姿を現したサッカー部の連中の顔には、噴き出す汗だけでなく、どことなく誇らしげな様子が浮かんでいた。後で聞いたことだが、大人のいないある意味の自由行動になったことでちょっとした逸脱があったようだが、それはまあこちらの胸に収めておくとして、ボクは彼らが漂わせていたその誇らしさのようなものに心を動かされていた。

こんな時、つまり一部の子が特別な任務を得て、子どもだけで行動するような場合、子どもたちはとても団結して行動するケースを何度も見てきた。普段なら気が合わないような連中が互いに意見を言い合い、アイデアを出し合いながら協力する。それは、おそらく《自分たちは選ばれたのだ、特別なのだ、任されたのだ》という優越感や昂揚感のようなものが強い絆として作用しているものと思われる。今回もボクが与えた「遅い子がひとりでもいたら待ってやり、必ずまとまって行動するんだゾ」という指示を守るために、途中で「オーイ、あいつが遅れとるでちょっとゆっくり走ろうゼ」というようなことを言い合ったことが想像できる。いつもならボクの指示などあまり聞いていないような子がこういう時は、普段言われていることを仲間に言ったりするものだ。子どもというのは、グループで自由に行動させると案外しっかりする。可愛い子には旅をさせろ、という格言があるのも、『初めてのおつかい』というテレビ番組が根強い人気を持っているのも、子どもたちだけで行動する時に起る脱線を含めたハプニングが成長へのステップとなっていることに着眼しているといえる。リーダーとして大人が出過ぎない方がいい場合は多い。

ただし、昨今は事故や失敗を恐れ《子どもを守れ護れ》の大号令一色である。『泣いて転んで大きくなれ』とか『失敗は成功の素』とわかっていても、学校や保育所ではなかなかそうはいかない現状がある。『転ばぬ先の杖』ばかりで、転ぶことすらさせないようになってしまって本当にいいのか。信じて任せるという当たり前のことをするにも勇気と覚悟が要る時代である。サッカー部の連中の誇らしげな表情に小さな勇気をもらったような気がした。

動画でないほうがいいものも

ボクが子供だった頃はラジオしかなく、夕方になると家の中ではいつもラジオが鳴っていた。子ども向けのラジオドラマを、体中を耳にして聴いていたものだ。音や言葉を頼りに幼い想像力を精一杯働かせて映像を作り上げていたのだと思う。自分が頭の中に作り上げた映像は断片的に今でも憶えているほどだ。後年、そのドラマがテレビ化されたのを見た時に、南の島の様子が自分の描いていたものと違っていたり、それまで茶色だと想像していたサルが白かったことに驚いた記憶がある。

『あらしのよるに』(作・きむらゆういち/絵・あべ弘士)という絵本がある。嵐の夜に真っ暗な小屋でオオカミとヤギが出合う。互いに姿が見えない中で誤解と思い込みによって食う者と食われる者の関係に変化が生じる。この絵本には『あるはれたひに』『どしゃぶりのひに』など続編が7巻まである。食う者と食われる者の間に芽生えた危うい妙な友情関係は、常に緊張関係を持ちつつ、幾つかの試練を乗り越えて本物の友情へと発展してゆく・・・かにみえたが、ヤギを食いたいというオオカミの本能は抑えきれずついに大きな口をあけて・・・。

あらしのよるに

この絵本の1,2巻がDVDになったのを見つけ、一部の子どもたちと見た。そもそも真っ暗な中で起こる誤解や思い込みと、それがそうではないと自分に言い聞かせる心の動きなど、心理描写が多い。つまり絵より言葉が勝っているのだ。ページを繰っても似たような絵が続いていることからも、あまり多くの絵を必要としないと言える。小さなスリルが続くので次のページをめくる瞬間のドキドキ感はある。だから紙芝居にふさわしいお話かもしれない。それをDVDでどう描くのか、興味のあるところだったが、やはり、こうなるしかないよなあという描き方だった。黒い背景の中に二匹の交わす言葉が文字になってグググっと大きくなったり、スライドしたり、顔がボワっと浮かんで消えたり・・・。つまりアニメ動画というよりちょっとだけ動く紙芝居という感じなのである。しかし、子どもたちは画面から目を逸らさずにしっかりと見ていた。

画像や動画が人の目を引きつける力はとても強い。だから子どもはこのDVDのように単純な映像でも集中はする。しかし、目から入る情報が多ければ多いほど想像力を働かせる必要がなくなる。想像しなくても主人公たちの姿形や景色が見えるのだから。動画全盛の時代だが、紙芝居やラジオドラマのように、見る人聴く人の想像力を必要とするものの楽しさも残しておきたいものだ。特に子ども時代はそういうものに親しんで育ってほしい。ラジオドラマや紙芝居は、今の子どもには返って新鮮かもしれない。教育的な価値も含めて見直されてほしいものだと、『あらしのよるに』のDVD版を見ながら感じていた。

交通ルールと同じ

《人の悩みの9割が人間関係だ》といわれる。今、子どもから社会人まで、不登校や引き籠り、鬱病など、心を病んでいる人が案外多い。SNSでの友だちとの付き合い方に神経をすり減らしてしまうことも話に聞く。『友だち幻想』(菅野仁)という本を読んで、いろいろ考えさせられることがあった。

菅野氏は言う。《一年生になったら友達百人できるの?子どもはみんな天使?夢は必ずかなう?君もイチローやフジイ君になれる?友だちが少ないとさみしいの?ノリが悪くちゃいけないの?ラインの返事、すぐ返せないこともあるでしょ?クラスが一つにまとまることがそんなに大事?話せばわかる人ばかりかな?》現実過ぎてちょっと夢のないように思うが、どれも共感できる気がする。菅野氏によれば、同調圧力として作用している考え方の多くが、フィーリングだけの幻想だという。子どもや若者はその幻想フィーリングに振り回されて苦しんでいる。ただし、人間関係は苦しみの原因になると同時に幸福感の源でもある。友達や周囲の人々に認められることで自信や幸せ感も得られる。だからこそ現実的な考え方をして人間関係をうまく保つことを主張する。特にイジメの対応についての菅野氏の提案は参考になる。《みんな仲良く、とか、イジメは悪いことだ、と強調するだけではイジメは解決しない。これだけは言ったりやったりしてはいけないという最低限のルールを作り、強い子(イジメる側)の言動に制限をかける。交通信号や交通ルールと同じように。イジメられる子には、相手に近づかないで適切な距離をとってやり過ごす(=共存)ことを教える。少数の力の強い者だけが自由に振る舞っている集団は、他の子の自由を奪い、息苦しい。イジメられている子に「あの子にもきっと良い面があるはず。それを見つけようね」などというだけでは、苦しむ子に我慢を強いたり、場合によっては絶望や自ら命を絶つ最悪の結果にもつながる。学校が中東の紛争地のように生命の危険を感じる場所になっているとしたらそれは異常なことだ。》(ボクの主観がかなり入ってしまった。)氏の言葉には弱者の立場に立った現実的な視点がある。幻想に縛られたり酔ったりして見誤っていることがあることを自戒させられる。