落ち葉いっぱい

言い足りなかったこと

前号No.06で子どもの貧困が連鎖することについて書いた。連鎖する原因の一つに、中・高生になっても経済的な理由で塾通いができないことが少なからず影響している可能性を指摘した。そしてある実験の結果として、連鎖から抜け出すためのヒントが就学前教育にあることを紹介した。キーワードは協調性や忍耐力、自らの生活をコントロールする力であった。そしてボクが本当に伝えたかったことは、就学前教育や塾通いにお金をかけられない家庭にとっては、協調性や忍耐力や自己コントロール力をもっと別のやり方で育てればいいのだというふうに、その研究結果を活用すればいい、ということであったのだが、そこが強調できていなかったようだ。

ボクの子ども時代には、塾や習い事などほとんどなかった。そもそも塾などなく、お習字教室に通う子がチラホラという時代であった。みんなが等しく貧しい時代でもあった。今から30年ほど前でも、塾などへ行かなくても学業に困らない子は普通にいたし、むしろ行かなくても本物の吸収力や学ぶ力を伸ばすことはできるし、その方が価値がありカッコイイとする見方すらあった。さすがに現在では塾や就学前教育が一般的になっているようだが、前述の研究成果が示すような協調性や忍耐力や自己コントロール力は、やり方次第で家庭で十分に育てることができるものである。乾いた雑巾がよく水を吸うように、知りたいという欲求さえあれば知識はどんどん吸収できる。幼いなりに自分の生活をコントロールし、やらなければいけないことに自分を仕向けることができれば、それは学業に自分を向かわせることに通じる。母子家庭など、経済的に苦しい家庭は、その貧しさを逆手にとって、金を掛けずに賢く育てること、たくましく育つことを工夫して実践すれば、そこに貧困の連鎖から脱出する道が開けるのだと思う。

身体感覚をこそ

自殺したいと思う人とその気持ちにつけ込んで己の異常な欲望を満たす人。両者がスマホやパソコンを通じて簡単に結びついてしまう。座間市で9人が殺害された事件である。少し前には相模原で多くの障がい者が理不尽に命を奪われた。犯人は心に闇を持っているような若者だった。心のどこかが病んでいる。最近の事件についてそんなふうに感じていた矢先、その病の原因・遠因に関係がありそうな新聞記事が目に止まった。

著名な霊長類学者であり京都大学の学長でもある山際寿一氏がAI(人工知能)による情報通信革命について書いた記事である。山際氏のことは以前から知っているが、ゴリラ研究の専門家である氏の視点は、霊長類の進化のプロセスを踏まえており、現代人が抱える問題に対する指摘はいつも示唆に富んでいる。AIについて書いているのがその山際氏と知って意外だったが、内容はいつも通り納得できるものだった。彼の指摘によれば《情報技術は近年急加速しており、人間の体がその変化についていけておらず、そのために弊害を起こしている。ちょうど現代人が環境や食べ物の変化によってアレルギー性疾患や糖尿病などの慢性疾患を発症しているのと同じように。人間の脳は言葉の発達によって大きくなったが、150人程度の集団の中でのコミュニケーションに適合した大きさで止まっている》のだそうだ。

さらに動物学者らしい指摘が続く。《人間は五感で他者とつながる。広くつながる点では視覚や聴覚だが、深くつながり信頼関係を築くのは他の霊長類と同じように嗅覚、味覚、触覚の方だ。フェイスブックやラインで頻繁に連絡を取り合っていても、顔を合わせないので身体感覚でつながることがなく、強固な人間関係をつくれない》。つまり、100万人に囲まれて暮らし、SNSで多くの人と情報をやりとりしていても、相手を本当に信頼してつながっているわけではない。人は、顔を見て目をみるだけでも、手に触れるだけでも伝わるものがある。逆に、ハンドルネームだけ知っているような人の数がどれだけ増えても心は満たされない。大勢の見知らぬ人に囲まれていると返って孤独感が増すということもあるのかもしれない。座間市のアパートでの事件の背景には、そんな若者の孤独感が隠れているのではあるまいか。

ポラン

ポランでは幼い子を含めて、多くの子がSケンや桜おとしなどの格闘遊びを好む。痛くても服が汚れても楽しいようだ。その理由については、身体や情操面に良い効果があることが以前から分かっている。お助けマンやカントリなどポランの昔の遊びが楽しい理由は、山際氏の言葉を借りればまさに《身体感覚》である。先日の親子合戦が盛り上がったのも、手や体にタッチし、目を見てジャンケンをする、その感覚が実は楽しさや信頼関係にがっているからだろう。

ポランにいる時はそんな身体感覚満点の遊び方をしている子も、家では普通に情報機器に囲まれた暮らしをしている。You Tubeに親しんでいる子もいるようだ。先日、高学年の子たちがユーチューバーについて会話をしているのを聞いた。調べてみたところ、今は、ユーチューバー(You Tuber)というものが子どもや若者たちの憧れの職業のトップになっていることが分かった。自分が得意な分野の情報を画像付きで解説したものをネットに投稿し、多くの人に見てもらうことで収入になる仕組みだ。人気のYouTuberになると企業から製品を宣伝してほしいと依頼があるなどして数千万円の収入があるという。これからの時代を生きていく若い人や子どもたちにとっては、新しい情報機器を使いこなしていくことは、世の中を生き抜いていくために必要なことであることは間違いない。だからこそ考えてほしいことがある。心を病まないためにも、そして楽しく充実した人生を送るためにも、知っておいてほしいことがある。一つは、通信技術はしょせん《道具》であること。スマホもYouTubeもそれを使って何かをするための《道具》である。何をしたいのかが明確でないと、道具に使われてしまうことになる。《道具》は賢く使わなければならない。二つ目は山際氏の言葉を引用することにする。《AIの利用によって(中略)安全な環境はできる。だが安全イコール安心ではない。安心は信頼できる人の輪がもたらす。(中略)私たちは今、豊かな情報に恵まれながら、個人が孤独で危険に向き合う不安な社会にいる。仲間と分かち合う幸せな時間はAIには作れない。それは身体に根差したものであり、効率化とは正反対なものだ。AIを賢く組み込む超スマート社会を構想する必要があると私は思う。》

*追記

この話を書き終えた直後に、大相撲の横綱日馬富士の暴行事件が発覚し、マスコミの大騒ぎが始まった。そのきっかけとなったのがスマホらしい。スマホの向こう側にどんな大切な仲間がいるのかそれは分からないが、目の前の親しい仲間や先輩に非礼なことをしてまで尊重しなければならない相手なのだろうか。スマホを片時も手放さない人がいたり、携帯で誰かと話しながらコンビニのレジで支払いをしている人を見かける。たった数時間、スマホを手放して過ごすことに不安を覚えるとしたら、その不安感がどこからくるものか、じっくり考えてみてもいいのではないだろうか。山際氏に倣って書くなら《本当に幸せで貴重な時間はスマホの向こうよりも、今、目の前にいる人としか分かち合えない》ということだ。

もめ事も成長の糧

まず二つの遊びを紹介する。一つ目は元少(げんしょう)というボール遊びだ。ハンドテニスとも呼ばれる昔からある遊びだ。10月〜1月の間は常設のコートを作ってあるので毎日やっている。二つ目の遊びは「一歩三歩」という女の子向けの石蹴り遊びだ。石蹴り遊びの入門コースは「カカシ」だが、一歩三歩はそれより少し難しい。最近、カカシに飽きた様子の2年生の女の子たちに教えたら、最初は難しかったようだが少しずつ進歩し始めた。

さて、この二つの遊びに共通していることがある。それは「もめ事が多い」ということだ。元少の場合のもめ事は、ボールが着地したのがラインの内か外か、や、打ったボールが手に当たったかどうかなどをめぐる言い争いだ。一歩三歩の場合なら、石を踏めたかとか線を踏み越えたとかで言い争う。その結果、最悪の場合は「じゃあ、やめれば」「フン、そんならやめるワ」となって決裂することもある。そんな決裂の現場に居会わせた時には、ヤレヤレ困ったもんだと思うのだが、よくよく考えればそれが子どもの遊び方なのだ。そうやって育っていくものがあるのだ。

育つものとは何か。広く言えば他者との関わり方であり、等身大の自我である。自己主張をどんなふうにすればいいのか、どこまでするのがいいのか、どこで折り合いをつけるのがいいのか。公正であることの心地よさのようなものや不正をすることの後ろめたさのようなもの。自分の判断が否定される悔しさのようなもの。相手を言い負かした時の征服感のようなものや同時に感じるかすかな申し訳なさのようなもの。抵抗するのをあきらめた時のじくじたる思いのようなものと、同時に覚えるスッキリ感のようなもの。そう、様々な「○○のような」としか表せない微妙な心の動きである。もめ事を通じてこういう心のひだとも言える感情が育っていくのだが、これは言葉や教科書で教えられるものではない。あしたになればイヤなことはすっかり忘れてまた一緒に遊べる年齢の時に、遊びを通じて、仲間と《もめ》ながら、解決したりウヤムヤにしたり、弱肉強食の非民主的な決め方も含めて、互いに意見を言い合うことでゆっくり育っていくものだと思う。

ポラン

これとは違う遊び方をしている子のことを考えると分かりやすいかもしれない。少人数で、同じ部屋にいても別々にゲーム機に向かっていたり、黙々とマンガを読みふけっているような遊び方。あるいは、習い事などの時間では、たとえ周囲の子といざこざが起ったとしてもコーチや先生という大人に仲裁されたり指示されることだろう。つまり、そもそももめ事自体があまり起こらないような過ごし方をしている場合は、もめ事を自分たちで収める体験が少ないわけである。そうなると、前述のような微妙な感情が育つ機会も少ないことになる。そしてそのような育ち方をした若者は、もめ事自体を嫌がり避けるようになるかもしれない。しかし避けてばかりいてはやがて行き詰まることになるだろう。大人になれば他人ともめることは誰だってできれば避けたいと思う。実際、避けるように言葉や態度を選んで行動している。それができるのは子ども時代のもめ事体験があるからではないだろうか。心が柔らかくて心が傷つきにくい子どもの時代にもめ事を解決する体験をしておくことは目立たないがとても重要な意味があるとボクは強く思う。もめ事を成長の糧にするくらいの積極的な遊び方をしてもらいたいと思う。

ちなみに、元少には問題解決のための巧みなルールが埋め込まれている。意見が割れて解決が難しい時、誰かが「イッキウチだ」と提案する。一騎打ちとは、当事者が二人だけで勝負をすることだ。この対決の結果は最終決着であり、双方とも絶対に受け入れなければならない。事実、このやり方だと負けた方もスッキリとあきらめがつくようである。やっつけた敵の数を競うCPゲームとは一味違う昔の子どもの知恵が生きていると思う。