楽しい時間

かたい話でゴメンナサイ

その1 北朝鮮のこと

「北朝鮮のミサイルが飛んできたらこれでやっつけてやる!」と勇ましいことを叫びながらヒミツキチという呼び名の秘密でもない基地の上で2,3人の低学年の子が棒を振り回している。その姿を見て、そりゃあこうなるようなあとボクは思う。

テレビで報道される北朝鮮といえば、一糸乱れぬ軍人たちの行進や火を吹いて飛び立つミサイルの映像ばかりだ。そしてリーダーたちが互いのやり方をののしり合う激しい言葉の応酬。さらに日本人の不安感を煽るようなJアラート発令のニュース。連日のようにこういうものを見ていれば直情型の人間や素直な子供たちは「やっつけろ!」と叫びたくなるかもしれない。でも、一つの国家を《やっつける》ということがどういうことか、現実的に具体的に考えれば、軽はずみな言動はとれないことはすぐにわかる。もちろん、子どもにそんな次元で考えることはむずかしい。大人たちの言動に影響を受けて素朴に反応すればこうなるということである。

ボクは子供たちに声をかけた。

「ミサイルが飛んでこないのが一番いいと思うけど、それにはどうしたらいい?」
「撃ち落とせばいい!」
「どうやって?」
「向こうが撃ったら落ちる前にこうやって撃てばいい」
「でも、誰かが投げた石に向かって後から石を投げて当てることはむずかしいよ。できるか?」
「できん。・・・あっ、でっかいベニ板みたいなので防げばいい」
「ベニ板で防げるかなあ?」
「・・・・。北朝鮮を全滅させればいい」
「そしたら相手だってもっと怒り狂ってメチャクチャやってくるかもしれんぞ。そうなったらどうする?」
「そしたらこっちはもっと、モーオーッとやる」
「・・・そうか、じゃあ終わらないな。どっちも全滅するぞ」
「・・・・」
「絶対にミサイル撃ってこない方法はないかなあ?」
「撃ち落とす!」
「絶対にミサイルなんか撃ってこない方法は?」
「やっつける!」
「そうか。それしかないか・・・。でも、他にないかなあ?」
「・・・北朝鮮と友達になる」
「なるほど。友達の家にミサイルを撃とうと思うか?」
「思わん。・・・・・・・・・・・・・。」

長い沈黙が続いた。その沈黙は、北朝鮮と友達になるってどういうこと?そんな?が子供たちの頭の中をグルグルと巡っているような沈黙に感じられた。予想もしなかった方向から強い光を受けて驚いているような感じの沈黙にも思えた。断っておくが、「友達になる」は、子どもが思いついた言葉であり、ボクは何も言っていない。ボクはただ、子どもたちの頭の中を少し揺さぶってみれば「やっつける」と「撃ち落とす」以外の言葉が出てくるのではないかと期待して、しつこく質問を繰り返しただけである。

国と国の関係を友達や仲間という平易な言葉で考えることは分かりやすい反面、誤解を招くこともある。友だちだからという感情が働くと、正しいか正しくないかという理性的な判断がないがしろにされる恐れがあるからだ。仲間を助けるという行為は美しいこととして正当化されやすい。そんな感覚で戦争に加担した例は最近の日本にもあり、それが本当に正しかったかどうかの検証は、一部の外国では続いているが、日本では検証のケの字も行われていない。国際問題は個人的な義理や付き合いとは別次元で、冷徹なくらい理性的に考えるべきである。どこかの国と国のようにトップが妙に仲良しを強調している場合には特に注意した方がいい。ただし、きょうのポランの子の場合は、幼い頭で精一杯考えた結果だから「友達になる」はそれで大拍手、よく考えたとほめてやりたい。とはいえ、残念ながら今の北朝鮮と友達になることは、やっつけること以上に難しい問題のようである。

日本にはかつて、子供たちまでが「鬼畜米英!」と叫んでいた時代があった。国民がやっつけろ一辺倒になった結果がどういうことになるか、尊い犠牲を払ってそれを学び、その反省を生かそうとしてきた歴史がある。その反省を深く肝に銘じている世代は今やごく少数になり、別の考え方で行動する世代が増えている。こと戦争に対する考え方としては《熱いものが喉元を過ぎた》時代なのかもしれない。北朝鮮に対して、今のところ日本も国際社会も何とか冷静さを保っていることにホッとするがこの先は分からない。どんな大義があろうが、武力衝突が起こってしまえばその大義の陰に隠されて多くの犠牲が払われることは間違いない。どちらの国でもA様、Bさん、C君、Dちゃん、E君のお父さん、Fちゃんのお兄さん、が大ケガをしたり命を落としたりするのだ。ただ静かに暮らしていただけのGさん、Hさん、Iさんの暮しが奪われるのだ。声高に大義を叫ぶ指導者たちばかりが目立つが、どこの国にも映像には登場しないたくさんの名もない善良な人々が黙々と生きている。威勢の良い大きな声に惑わされず、熱くなりすぎず、冷静に《自分の頭で考えれば》見えてくることはある。

その2 貧困の連鎖から抜け出す

子どもの貧困問題が広がっている。終戦直後の貧しい日本に生まれ、日本が高度経済成長を遂げ生活がどんどん豊かになる過程をつぶさに見てきた世代のボクとしては、今の日本は間違いなく豊かな国だと思っている。その今の日本に、食事にも事欠く子どもたちがいるということは信じがたいのだが、いろんなデータを示されると事実なのだと思わざるを得ない。そして貧困によって起る教育格差が貧困をさらに連鎖させてしまうことが問題をより深刻化させているようである。

今度の十月の総選挙では与野党ともに教育の無償化を主張していたが、その対象は幼児教育と高等教育である。真ん中の小・中学教育は義務教育としてすでに手厚くなっているという認識なのかあまり対象になっていない。しかし、貧困が連鎖する原因は貧困家庭の小・中学生が進学の機会を狭められていることにある。経済的理由で塾などに行けず、高等教育への道が閉ざされ、その後の就職もままならず、なかなか貧困から抜け出せないのである。

その貧困から抜け出すにはどうしたらよいか。あるノーベル賞学者が長期間の実証実験をした。4,5歳の子を数十人ずつ二つのグループに分け、一方だけには就学前教育を施し、他方にはそれをしない。両グループの子が40歳になるまで追跡調査をしたところ、収入や持ち家などにおいて歴然とした差ができたという。ポイントは協調性と忍耐力とやる気だという。これらはどれも非認識能力という。分かりやすく言えば、自分でやることを見つけ、計画をたて、実行し、反復復習する習慣を身につけることのようだ。あれがやりたい、こんなやり方でやってみよう、やってみた、うまくいった、いかなかった、もう一度やってみよう。こんなことを子ども自らができるようにすることが大事なようだ。ボクの個人的な表現を付け加えるなら、これは要するに自分をコントロールする力を養うことだ。子どもなりに周囲と協調すること、必要な忍耐ができること。それが学業成績にも影響し、将来の職業や生き方も左右するということか。貧困家庭に生まれようとも、幼いうちからこんな子どもに育てば進学の壁もクリアーできて貧困の連鎖から抜け出せるということになるのだろうか。

その3 幸せな国

北欧のデンマーク、ノルウェー、フィンランドは世界幸福度ランキングで常に上位にいる。理由はいろいろだが共通しているのは高負担で高福祉であること。つまり税金は高いが教育や医療はすべて無料で受けられる。そして国民の考え方の自由度も北欧全般に高いようだ。例えば、就学年齢が一律ではないことである。つまり、その子の成長に合わせて就学時期を選べるので、同学年の子がみな同じ年齢ではない。初等教育の段階から他人と違う歩き方が認められると見ることができる。働き方についても、自分の生活パターンや家族構成によって労働時間を調整できる。女性の就業率も高く収入が確保できるため、離婚も含めて女性が自分の生き方を積極的に選ぶことができる。LGBT(性的少数者)に対する理解度も北欧や欧州は全体に高い。

注目したいのはノルウェーである。北海油田という富を持っている資源国でもある。同じように資源の豊かな国でも、中東の産油国はランキングでは20位前後である。違いは資源の管理やそこから得られる収入の管理にある。管理するのは国民の代表である。その役人が不正をせず、公正に国民のことを思い、国民の将来のために賢く資金を運用し使用する。それが国民に還元される。運用を託された政府系のファンドは透明性のある情報を公開する。つまり政府や議会や官公庁や企業が、国民の財産を安心して託せる組織なのである。国家に対する安心感と信頼感。これが幸福度を高めているのである。もちろんそういう政府や代表を選ぶ制度が正しく機能しており、国民が政治や経済、社会へ参加する機会が平等である。だから事業に失敗することや病気のことを心配せずに積極的に生きることができる。 ウーム、何かが日本と違う!ちなみに日本の幸福度ランキングは50位前後である。

その4 つい本音が・・・

前の話の続きのようになるが、先月の衆院選挙のことである。小池ゆり子氏が立ち上げた希望の党を巡ってあった悲喜こもごもの中に引っ掛かることがあった。希望の塾の塾生だったある人が立候補して落選した。その直後にこう発言したという。「小池さんは都知事のままでいられるからいいけど、私の暮しはどうしてくれるのだ」と。また、民進党から希望の党へ移った人がたくさん落選したが、自身は何とか当選したある議員はこう言った。「多くの落選した仲間のこれからの生活が心配だ」と。

一体だれのために政治家は存在するのか。自分たちの生活のためなのか。これでは国民のためというよりも、自分の暮しを確保するためじゃないのかと思われてもしかたがない。この発言をした当人たちはまっとうなことを言っているつもりだろうが、そこには多くの政治家たちに共通しているはき違えがあると思う。政党は議員のための生活互助会ではないはずだ。政治で飯を食っているという感覚の議員や、政治家の家に生まれたから引き継いだというような世襲議員は、国民のために何をしてくれるのだろうか。主義主張のぶつかり合いというより、せっかく手に入れた政治家という職業を失いたくないという本音がチラついた選挙に見えてしかたがなかった。

親子遊び合戦

今年の親子遊び合戦は穏やかで気持ちの良い天気に恵まれた。お父さんやお母さんと遊べる(戦える)この行事を、子どもたちはとても楽しみにしている。そして今年の父母の様子を見ていると、最後の野球まで積極的に参加してくれたことでも分かるように、子どもたち以上に大人が楽しんでいるようだった。この行事を親も子も楽しいものと受け止めてくれているようで、主催者としてはいつも以上にやりがいを感じることができた。

対戦成績にそれほどの意味はないが、一応「合戦」と称して続けている以上、記録は残ってしまうのでここに記しておくと、今年の親チームの一勝を加えて、子どもチームが12勝、親チームが9勝、引き分けが3、となった。