りんご

いい合宿だった

毎年、合宿の夜にはキャンプファイアーの周りで歌ったり踊ったりする。キャンプファイアーを点火する方法には、薬品を仕込んでおいて瞬時に発火させて参加者を驚かすやり方や、火のついた矢が飛んできて着火するやり方(これも仕込みが必要でやはり見る者は驚く)や、トーチを使って目の前で薪に火をつけるやり方などがある。薬品を使う方法は薬品の管理が面倒なので最近はもっぱらトーチを使っている。点火する際には「火の舞」(トーチダンス)という儀式がある。火のついた2本のトーチをバトントワリングのようにクルクルと回転させるパフォーマンスだ。暗闇の中でゴーゴー、ボワーボワーと音を立てながら複雑に回転する炎は、見ている者の目を奪い、これから始まるお楽しみへの期待感を盛り上げるのにうってつけだ。

キャンプファイアー

十数年前まではボクが一人でその炎の儀式をしていたが、ある時から5年生の数人に任せることになった。5年生が学校の野外活動でそのトーチダンスを練習するようになったからだ。学校では音楽までつけた演舞として完成させる。毎年、5年生の中にはそれができる子が必ず存在することになったわけだ。しかも野外活動は夏休みの前に実施されるので、ポランにとっては好都合だった。指にマメを作ってまで練習した子たちにとっても晴れ舞台は一度より二度あった方がいいだろう。

ところが今年、5年生の野外活動が9月後半になった。だからポランの合宿時にはそのダンスは未完成だった。ただ、幸いなことに、音楽や振付までは決めてくれてあったので、演技する予定の4人の5年生にポランでそれを練習してもらい、学校よりも一足先に完成させ、一足先にポランの合宿で披露してもらった。実際に火をつけた練習もせずにポランでの本番を迎えた4人はかなり緊張した様子だったが、反ってそれが良い集中力を引出したとみえてとても良い演舞だった。見る側にもその集中が伝わったのか、その後のゲームや歌にも高い参加意欲が見られた。今年はなかなか良い合宿キャンプとなった。

ちょっとわびしいナ

舞台の上(ポランにある唯一の板の間)で2,3年生の男の子7,8人が何かふざけ合っている。一人の子が前に出て、両手にもった団扇で何か踊るような仕草をし、他の子がそれを見て大笑いをしている。ボクには最初それが何をしているのか分からなかったが、そのうちにそれはどうも宴席でオジサンたちがやる裸芸らしいことに気がついた。それもかなり酔いが回った頃に行われる秘芸というか裏芸というか、素っ裸のおっさんが股間をお盆で巧みに隠しながら踊るアレだ。TVの影響に違いないと思い、そばにいた子にきいたところ、それはアキラ100%とかいう芸人の出し物で、人気なのだそうだ。本当に裸でやっているのか、本当にこういうものがゴールデンタイムの茶の間に放映されているのか、にわかには信じられなかった。ただ、思い出したことがある。昨年の年末ごろ、流行語大賞とかいうイベントで、全裸に見える男が「安心してください。はいています」という決めゼリフで登場したことだ。さらに数年前には「そんなの関係ねえ」と叫ぶ芸人が海パン一丁だったことも思い出した。裸芸も露出の度合いが徐々に増しているということか。

昔から、子どもたちは芸人のギャグや面白いCMにとても敏感で、ことの善悪に関係なく面白ければ受け入れる。ポランの年末劇でも流行のギャグをこれまでに何度か取り入れたことがある。また、次々と登場する個性豊かな、風変わりな芸人たちの存在は、子どもたちの世界でも、生き方の幅を広げる意味で良い影響を与えている可能性はある。弱い立場の子が一方的にやり込められているだけでなく、強い子に『あんたにそれを言われたくない!』と言い返せるのは、TVでの芸人たちのやりとりの影響を受けているように思う。反面、TV画面の中で行われる芸人仲間の罰ゲームのようなギャグが、子どもたちの世界でイジメに使われることもある。TVの中で行われるものは世間が公然と認めたものとして、善悪に関係なくその影響は大きいものがある。

団扇をひらひらさせながら裸芸のマネをしている男の子たちを見ながら、そんなことをあれこれ思ったのだが、正直な感想として、なぜか情けないようなわびしいような気分になった。音楽とか、リズムとか、爽快感とか・・・、下ネタ以外のセンスの良さが感じられない酔客用の安い芸だからか。

靴、さがしてあげる

靴がなくなったと泣いている子がいた。状況を確認してみるとどうも隠されたようだ。あちこち捜し回っていると一人の子がツカツカと近づいてきて何をしているのかと尋ねた。靴を探していることを伝えると、「一緒に捜してあげる。そういえばさっきどっかで見たような気がする」そう言うとその子はススキの株の茂みへ真っ直ぐに向かった。そして「あ、あった。これじゃない?」とまさにその靴を拾い上げた。「それだよ。よかったなあ。ありがとう」とボクは礼を言った。低学年の子の場合、このようなことは時々ある。もちろんボクはそれ以上、余計なことは言わないことにした。

おまえたちに言っておく

《ウソをつくことは悪いこと》《他人のものを盗むことはいけないこと》そんな当たり前のことが、一昔前よりも軽く考えられているような気がする。そんな出来事が続いた。

夏はプールのための着替え場所が緑陰に設けてある。そこでNが誰かの衣類を投げ捨てているところがちょうど目に入った。他には誰もいない。注意をしたところ、自分の下着が隠され、やったのはたぶんHだからHに仕返しをしたのだと答えた。ボクが木の上を捜したらNの下着が見つかった。どちらが先にやったのか、いきさつについて詳しいことは分からない。しかし、そんな嫌がらせがこの場所で日常的に行われているのかと思うと情けないような悔しいような気がした。その場所で着替えをしていた連中を15,6名呼び集めた。「下着がひとりで木の上に飛んでいくわけはない。この中の誰かがやったはずだ」。子供たちは口々に「ボクじゃない。ウソじゃない」と真顔で答えた。この真顔には何度もお目にかかっている。それならやっていない子は行きなさい、というと全員が行きかけた。ボクは方針を変えて呼び戻した。自分ではないとしても嫌がらせの場面を見たり関わったりはしているのだろうから、全員に反省を促すためにしばらくの沈黙を指示した。だが、おそらくこの沈黙も大した効果は期待できまい。そこで一計を案じた。建物の陰で待つボクのところへ一人ずつ順番に来る。誰からも見られないところで正直なことを言う。ボクは絶対に叱らない。「ヨシ、分かった。よく言ってくれた」としか言わない。約束する。そう告げて建物の陰で待機した。結果はNの思い込みとは違うHではない一人の子が「ボクがやりました」と悲しげな顔で告げた。ボクは約束より一言多く「もうやるなよ」と加えたが叱りはしなかった。

数日後、ある子のビー玉の袋からビー玉がごそっとなくなった。金額的にはたいしたことはないものだからか、落ちていることや袋が放置してあることもよくある。そんなビー玉とはいえ他人の物を黙って持ち去ることは悪いことである。コンビニやスーパーなら万引きにあたる犯罪だ。今の子どもたちの金銭感覚は、10円玉を握りしめて駄菓子屋へ走った昔とは大きく違う。物が豊かになった分、大切にする気持ちが希薄になっていることは間違いない。ベーゴマやゲームカードでもありがちなことだが、誰かに見つからなければいいと思っているとしたらこれは許せない。前述の着替えの件のことと合わせて全員に話しをすることにした。

《他人の物を黙って持っていくのはドロボーであり、ビー玉一つでも悪いこと、絶対にやってはいけないことだ。誰かの服や靴を隠すのも良くないことだし、ウソをつくことだって悪いことなのだ。そんなことも分からないような子どもになってほしくない。そんな子を育てるためにポランはあるのではない。》そんなことを強い口調で、朝一番の時間に伝えた。

*後日、似たようなことがあったので加筆する。おやつをこっそり捨ててあるのが見つかった。あんこやレーズンの入ったもの、固いせんべいなど、おやつの好き嫌いがジリジリと増えているが、ヨーグルトやエビせんべいのようなものですら食べたくない子はいるようだ。夕方までのおなかの足しとして定着している4時のおやつだが、最近の子には栄養的にはもう必要ないのかもしれない。嗜好品として、また単なる生活の区切りとしてのオヤツになっているのかもしれない。しかし「あれはイヤ、これは嫌い」と言われると、ついつい、わがまま言うな、ぜいたく言うな、ということになる。量を減らしてやったりもするのだが、こんな風に無残に捨ててあるのを見るとどうしても心が痛む。最初から食べないことも選択できるようにする方がいいのかもしれないと思い至った。そこで、みんなと約束をすることにした。まず、食べ物を捨てることはもったいないことでいけないこと。お金もかかっているし、お菓子を作っている人もおいしく食べてもらうためにがんばっているのだから。でも、どうしても食べたくなければハッキリとそう伝えること。だから食べものを捨ててはいけないヨ。 物はこれからもそれなりに豊かになるかもしれない。でも、食べものは、昨今の環境変化を考えると、豊かになるどころか食糧の確保も難しい時代が来るような気もする。食べ物の大切さについてはこれからも次世代に言い続けた方がいいと思う。

時代の雰囲気が伝われば

今はレンタルビデオやネットでほとんどの映画を観ることができる。ならばディズニーやドラゴンボールのような娯楽映画は家庭に任せ、ポランならではの選択をしようと決めている。夏休みということになれば選択肢として浮かぶのが子供たちに戦争のことを伝えようとして作られた作品だ。

今年は『早咲きの花』。2度目か3度目の上演になる。豊橋の市制百年を記念して作られ、時習館高校や嵩山の蛇穴など豊橋市内のあちこちや蒲郡の海岸などで撮影している。内容は、失明を宣告された主人公(浅丘ルリ子)が、大好きだった兄と幼い頃に過ごした豊橋での日々を回想するという形で戦争の時代を描いていく。豊橋に疎開してきた兄妹は、地元の子供たちと仲良くなり、スイカ泥棒をしたり、冒険をしたりしながら、それなりに楽しい子ども時代を過ごす。やがて戦況は悪化し、友達の父親が戦死、担任の教師が涙ながらに出兵していくなど、二人の周辺にも戦争の暗い影が忍び寄る。中学生の兄たちも学業を中断して軍需工場(豊川海軍工廠)へ動員される。そこであのすさまじい空襲を受け、大勢が命を落とす。兄も帰らぬ人となる。

この映画は子どもが見ることも考慮しているように思う。豊川の空襲シーンはどうしても描かないわけにはいかないと思うが、その描き方は必要最低限度であり、戦争映画につきものの悲惨さは感じない。それでも映画全体にやや悲しげな雰囲気が漂うのは、多くの場面が白黒であるからだろう。そしてそれは実際にその時代の人々が感じていたのと同じ重苦しさのようにも思われる。子どもに見せる戦争映画として、過不足の無いものだと思う。地元が舞台という点を差し引いても秀逸な映画だろう。

この映画を観るのは2度目だという子が、一度目の時はよく分からなかった場面の意味が、今回、よく分かった、という話をしてくれた。「それ、もう観たことある」という声にもめげず繰り返すことにも意味があるようだ。ギャグ満載のアニメ映画とは違う印象が子供たちの心に残ってくれることを願ってやまない。