人間は、子ども時代に人類の進化の過程を凝縮して追体験する、という考え方がある。たとえば、人間の赤ちゃんがハイハイ、つかまり立ち、ヨチヨチ歩きを始める過程が、人類の祖先である地上に降りたサルが数万年の歳月を経て二足歩行を身につけたそのプロセスを辿っている、という考え方である。立ち上がったことで手が自由になり脳は画期的に発達し、人類は今日の文明を進化させることになったのである。そういう意味で子ども時代の様々な体験は正常な人間になるために省くことができない特別なものとされる。ボクが「子供時間」という表現で子供時代を特別視している根拠の一つでもある。
先日、テレビで、高い場所を怖がらない子が増加していることを知った。高層住宅の上階で生まれ育った子は、ベランダも窓ガラスがそれなりの造りになっているために、安心して体重を預けたりして、毎日、数十メートルの高さから下の景色を眺めて育つ。そうして高さに対する恐怖心を持たずに育った子は公園の遊具の上でも、いつもと同じように不用意に行動するようになる。たとえ3メートルとはいえそれは落ちれば十分に危険な高さである。高い所を正常に怖がることの大切さを再認識する必要性を、テレビは解説していた。
それを聞いてボクは最初に書いた凝縮追体験のことを思ったのである。今、子供たちが、あまりケガをしない、ヤケドをしない、あまりケンカをしなくなったと言われる。ポランでも確実に見られる傾向だ。大人としてはどれもできれば避けたいことであるが、子供時代には素通りしてはいけない体験なのだ。正常にケンカをすること、正常にケガをすること、正常に火傷をすることは必要なのだ。ケンカをしてみなければ、痛さも、後味の悪さも、仲直りする方法もわからない。ナイフで指を切ってみて初めて刃物の安全な使い方をマスターできる。風邪をひくことや他人を傷つけることなどの身体経験はもちろん、さみしさや悔しさ、情けない思いをするなどの精神的な体験もすべては必要な体験なのである。子ども時代ならばどれも大事に至らないで済む。なぐり合ったとしても力は知れている。小刀のケガなら絆創膏一枚で済む。悲しさや悔しさも一晩寝れば忘れるのが子供である。麻疹(はしか)の喩えもあるように、大人になって初めて体験すると重症になってしまうことが多い。しかも、子供時代のそうした小さな痛みや悲しさが、想像力の種となって大きな戦争の悲惨さを理解し、避けるための助けとなるのである。
しかし、現代社会はどうしても大人中心になる。高層マンションは子供が育つためには適さない。大人には便利極まりない車や新幹線は、道中を省くという意味で子供向きではない。都会生活はとにかく大人たちのビジネスのために便利な環境であって、子供たちの成育環境としては好ましくない。そもそも土、水、木などの自然体験、生き物体験ができない暮しは、生き物としての人間の根本の部分を育てない、と言ったら言い過ぎだろうか。高い場所や燃え盛る火、渦巻く激流、真っ暗な闇を、まずは怖がるように育つこと。それに挑戦しそれを克服しようとするのはその後のことにすべきだと思う。
ついでに書くが、大人の都合や好みや理想ばかりを優先し子供たちに押し付けることは、子供たちから正常に体験しなければならない機会を奪うことになりかねない。母親にとって気味が悪い生き物も、子供にとっては生きることや死ぬことを教えてくれる大事な存在である。母親が清潔ばかりを求め過ぎると泥や草の上に裸足で立つことを嫌がるような子に育つ。それが免疫力の低下につながることもある。子供たちが正常に怖がり、正常に悲しがり正常に涙を流し、正常に反抗するために、大人は《親になったが運の尽き》とあきらめて、譲ったり小さな我慢をしなければならないことがいろいろあるような気がする。
7月に始めた一年生たちのベイゴマ修行が続いている。ベイゴマはとても小さくて紐を巻くことがむずかしい。だからその前に大きなコマで修行をし、指先が訓練されてからベイゴマに進む。今年の一年生たちをみていると、こういう時間をかけてマスターすることの苦手な子が、またジワリと増えたような気がする。幼いうちのジックリ体験が減っていると思われる。30年以上、同じ年齢の子に同じやり方で教えてきてそう感じる。以前なら上達の早い子で10日ほど、遅い子で3週間から一か月でマスターした。しかも合格率は100%だった。それがいつの頃からか、上達の速度が遅くなり、合格できないまま夏を終える子がチラホラ出るようになった。さらに合格しないまま夏を終える子が複数いることが珍しくなくなった。そして、今年、8月の半ば現在、合格率は4割である。さらに気がかりなのは、何度やってもうまくできないことにイライラする子やいじける子、放り出す子が目に付くことである。今までは手取り足取り教えてもらうことを素直に受け入れてくれたものだが・・・。近い将来、ベイゴマを拒否する子が現れたり、こんなにむずかしいものをやらせること自体が問題視され、中止することになる時が来るのかもしれない。考えたくない予想だ。
6歳、7歳の子にとってベイゴマの難しさが尋常でないことは間違いない。普通なら、さあやろう、と言われてできることではない。しかしポランの夏休みにはそれを可能にする環境がある。練習のための時間がたっぷりあり、楽しげに勝った負けたと騒いでいる上級生たちがいる。そしてゼロからスタートし競い合う仲間がいる。だからできるのだ。そしてこれは一種の精神修行である。同級生が一人、また一人と合格して戦いの舞台に登場して行く。自分も早くそうなりたいけどなかなかできない。コツコツやるしかない。ええーい、面倒くさい、こんなことやりたくない、でもやるしかない、あの子にできて自分にできないはずはない、くやしい、もう少しがんばってみよう・・・、一年生たちの心は揺れているはずだ。初めて出会う試練だ。それを乗り越えることで一歩たくましくなる。ポランの遊びにはCPゲームと違って楽しさにたどり着くのに忍耐を必要とするものが多い。でも、しょせんは昔から子供がやっている、だれにだってできるリアルな遊びだ。腐らずいじけず、残りの夏休みの間に何とか合格して年寄りに暗い予測をさせないでほしいものだ。
4年生だけのサイクリング。新城の江島橋下の河川敷公園。全員参加できたことが何よりだった。自分たちだけ、という特別な気分が奏功したようだ。木の下の洞の底にマムシが眠っていたのを見つけたが刺激しないようにしておいた。その木の下で弁当を食べた。その時の写真がある。知らない人が見れば楽しげな弁当風景にしか見えないが、子供たちがマムシの存在を知っていながらすぐ隣で平気な顔で楽しげに弁当を食べていると思うと、なにか妙な気がしてくる。
海に行く予定の日、天気予報は雨模様。しかも雷雨予想。隠れるところが何もない砂浜である。落雷の心配は大きい。それを承知で出かけるには子供の数が多すぎる。残念ながら中止にした。いい海岸である。全国的にも誇れる景観だと思う。秋になったら家族で出かけてみてもらいたい。休むことなく打ち寄せる波と、ゆるやかな地球の丸みを体感してきてほしい。
この行事は30数年前に親が子どもたちのために開いた夜店の真似事が原点である。ちょっとしたオモチャや菓子を子供自身が作った紙のお金で売買していた。参加者も現在の五分の一にもならなかっただろうか。カードを売りたいという子供たちの希望を取り入れて、実際のお金で売買することにしたのが10数年前のこと、ぬいぐるみや不要なオモチャを売る店が現れ、手作りの小物の店が増え、お母さんたちの店が増え、年を経るごとに食べ物屋などが増えて今の形になった。
今年は昔の原点を思い出させてくれるものが久しぶりに登場した。魚屋とバスである。かつてクワガタやカブトムシ、小魚を売る店がいくつか出たものだ。その日のためにカワガタを集めておいて市価の十分の一ほどの値で売った。ボクはムシ捕りや魚捕りに喜んで駆り出されたものだ。ダンボールで作った電車が走り、中に子供が入ってニュースを読む街頭テレビや箱の中で子供がラジカセを操作するジュークボックスなどもあった。儲けにはならないそういう店を楽しんでいる姿はいかにも子供らしくて好ましかった。子供らしい店と、大人も楽しんでいる店があり、参加者の数も相変わらず多くて、今年は一段と楽しい夕べだった。
最近、みんなで一斉に打ち水を行う行事が市街地で見られるようになった。浴衣を着て柄杓(ひしゃく)で上品に水をまく姿を見る。ポランの水かけは上品ではない。洗面器の水を思いっきりぶっかけ合うのだ。2組に分かれ、大きめの浴槽ほどの水量を双方に溜めておき、その水が底をつくまでかけ合う。水着なんかでは面白くないので普段着のままだ。子供たちの顔は笑っているのにあまり声を発することがない。笑顔で水をくみ、笑顔でかけまくり、笑顔で逃げる。水滴が飛び散り、あたりはあっという間に水浸しだ。夏の日の午後の痛快なお楽しみ。
クワガタを捕りに出かけたが、森が一段と荒れていたことに驚いた。数年前からクヌギの大木が枯れていることには気づいていたが、枯れてから時がたち上部が崩れ落ち、青い空がぽっかりと広がったために森がやけに明るい。金田にも神郷にも三口池の奥にもそんな枯れた森が広がっている。ナラ枯れといって、ドングリと称されるカシ、ナラ、クヌギなどにキクイムシが繁殖することが原因らしい。原因は温暖化ではなく、感染木を放置したり大きい木ばかりを尊重して低木を伐採することが原因だという。この先どうなるか心配だ。
カブトムシやクワガタが好むクヌギの木が減少していることと、それらの虫を欲しがる男の子の数が圧倒的に減少したこととの間に、バランスを保とうとする自然界の不思議な相関関係を見るのはボクの考え過ぎか。
二組対抗のじゃんけんゲームである。それぞれの組の大将のことをお助けマンと呼ぶ。○○マンといいう名前からしてそれほど古い遊びではないことがわかる。30年ほど前にどこかでボクが仕入れた遊びである。ジャンケン遊びではあるが駆け引きがあり、学年を問わず楽しめる。
【コート】
20メートルほど離れたところに直径2メートル前後の円を描きそれぞれの陣とする。
【ルール】
陣を出てタッチした相手とジャンケン。勝てばそのまま進む。負ければその場にしゃがみ、味方のお助けマンを呼ぶ。お助けマンが自分のところへ来てタッチしてくれたら自陣へかけ戻り生き返る。相手のお助けマンが仲間を助けようと自陣を出た隙を狙ってタッチし勝てば勝利する。
【遊びの実際】
自陣近くでジャンケンをすれば、負けたとしても助けてもらいやすい。遠いと助かりにくい。大将は単独で仲間を助けに行くと狙われやすいので、味方の護衛を受けながら巧みに死んだ仲間を助けて回ることになる。リーダーでもあるそのお助けマンの注意力と判断力が勝敗を左右する。
カードで遊ぶ
捕まえた魚を売る
水かけ合戦
キャンプファイアーの後で