歳をとるとどうしても流行に鈍感になる。今、子どもたちがどんなテレビ番組を観て、どんなキャラクターと遊んでいるかなど、年々疎くなる。それでも仕事柄、子どもたちの筆箱やランドセルを覗き込んだり、人気のキャラクターをベーゴマに描いてやったりすることはある。だから、世の中の流行を子供たちの持物や言動から知る機会は多い。子どもたちが歌っていたわけの分からない歌の出所を、自宅でテレビを観ていて知ることもある。昔から子供はテレビのCMや流行語や流行のギャグなどにとても敏感だ。《子供は世の中を写す鏡》といわれるように、子供を観ていれば世の中の表面的な動向を知ることはできる。ただし、それは子どもたちが世の中、つまり大人たちの言動に影響されやすいということでもある。影響はいいものばかりではない。大人が予想しなかったようなよからぬ方へ向かうこともある。子どもというフィルターを通して出てきたものと出会うボクは、素直に面白い!と思うこともあれば、エエッ?これはちょっとどうなのかなあ、と考えさせられたりすることもある。先日、低学年の子らの会話に驚かされることがあった。
男の子たちが何か言い争うような声が聞こえてきた。「おまえにオレの人生を勝手にきめてほしくなんかないネエーッ!」。確かに「ジンセイ」と聞こえた。人生を決めるとは一体何事が起こっているというのか。大げさなその言葉が気になって、思わず作業の手を止めて何なのか確かめようと様子を探ってみた。そこにいるのは7歳や8歳の子であり、そんな年齢の子の人生を左右するような出来事が、このポランのグランドの片隅で起こっているとなれば、こりゃ放っては置けない。遠くからその言い争いに耳を傾けていて分かったことは、何をして遊ぶかという相談が決裂しかかっていることだった。そりゃあそうだ、基地で遊ぶかボールで遊ぶか、人生が左右されかねない大問題だもんなあ・・・、と言ってやりたいところだが、やっぱりこの場面で使うには大げさ過ぎだろう。苦笑しながら作業に戻った。
たぶん、子供たちが親しんでいるコミックやテレビアニメの影響だろう。登場人物がそんな言葉を使うのだろう。今の子どもたちはそういうものの影響で語彙がとても豊かで、使い方も間違っていない。例えば「妥協する」とか「納得する」とか「根本的に」とかいう言葉が低学年の子の口から飛び出して来る。こんな時は果たしてどの程度まで理解して使っているのかつい確かめてしまうのだが、たいていはよく分かっている。理解できているから正しく使えるのだ。感心する。子供時代には、難しい言葉やしゃれた言い方を知った時、それを使ってみたくなることがある。ちょっと背伸びしてみたいのだ。さっきの場合「おまえが決める遊びはやりたくない」と言うより「「おまえにオレの人生を決められたくない」と言った方が確かにガツンと断る効果がある。その意味では案外適切な使い方のようにすら思う。
言葉というものは、物の名前や自然現象、人の考え方や感情など、どの分野でもその事物や事象そのものを理解していないと適切どころか全く使えない。ボクは「なゐ」が地震のことであり「入相(いりあい)の鐘」が夕方に寺でつく鐘のことだとごく最近知った。知った今なら「昔は入相の鐘が鳴るまで遊んだものだよ」などと書けるが、知る前なら別の表現しかできない。言葉とはそういうものなのだ。単なる物事を表す言葉なら「百害あって一利なしだ」とか言ったとしても、ヘエー、生意気な言葉を知ってるんだなあ、と感心する程度で何も問題はない。ふと心配になるのは感情を表す言葉である。「憂鬱(ゆううつ)」とか「空虚な気持ち」などの言葉を子供が、誰か芸能人のギャグの真似などではなく適切に使うとしたら、それはそういう感情を理解しているということになる。空虚を感じるような体験を小学生がしていることになる。それが低学年児だとしたら、いつどこでどんな時に感じたのかその子の暮らしぶりが気になってしまう。中学生だとしても「嫌悪感」だとか「屈辱的」「生理的にムリ」などの言葉を友達との間で日常的に交わしているとすれば、暮しの中にそう感じる瞬間があるということで、大人としてはあまり好ましいとは思えない。気の毒なことだとすら思うが、残念ながら、これに近いような中学生の実態はすでにあるようだ。
世の中の様々なものが複雑になり、子供たちが大人と同じ生活サイクルで暮らすようになっている。大人と同じドラマを観、同じ歌を歌い、同じゲームに興じ、同じ悲惨なニュースの報に接し、同じ高級料理を口にしている。当然、子供たちは肉体面だけでなくいろいろな面で大人化する。複雑な感情を理解できる年齢も、疲労感や空しさなど子供には似つかわしくない感覚を知る年齢もジリジリと低年齢化する。早熟化という名前の老化が早く始まることでもある。長い間子供たちを観てきて思うことがある。「子供たちよ、もっとゆっくり育ちなさい。そんなに急がなくていいんだよ。もっと怒って、泣いて、笑って、いっぱいいっぱい遊んで、ゆっくり大人になればいいんだよ」。
ビー玉遊びである。ビー玉が一つあれば一年生から六年生まで、いや大人まで楽しく遊べるいい遊びである。ポランに屋根のついた常設のビー玉場があり、子供たちは長い夏休みの一日の中で、気が向いたときに気が向いた仲間を誘っててんこに興ずる。「てんこ」という呼び名は天国地獄から来ているようだ。順調に穴に入れることができれば天国、せっかく穴のそばまで寄せたのに、そばにいた相手にガチンと弾き飛ばされてしまえば地獄。そんなところに命名の由来がありそうだ。
【コート】
縦横7,8メートルの広さの土の空間に直径が5センチほどの穴を5つ掘る。5つの穴の位置関係は右の図を参照のこと。各穴と穴の距離は約2メートル。最初の穴からさらに2メートル離れたあたりにスタートの線を引く。
【ルール】
3人〜6人程度で遊ぶ。親指と人差し指の2本かあるいは親指と人差し指と中指の3本かでビー玉をつまみ親指の爪で押し出すようにして玉を転がす。その方向と強さをコントロールしてゴルフのようにカップ(穴)に入れる。穴については順番があり1,2,3,2、4、2,5,2,4,2,3,2,1のように進む。必ず2を経て進まなければならない。すべての穴を通過してスタートのラインを横切ると殺し屋になる。殺し屋になると他のビー玉にカチンと当ててそのビー玉を殺すことができる。穴に入った場合と他のビー玉に当たった場合はもう一度自分の番が続く。
【実際の遊び方】
最初に順番を決める。1の穴付近からスタートラインに向かって玉を弾じく。線の内側で一番線に近い玉から1番、2番となり、線をオーバーした玉が複数あると、その中で近いものから上位となる。線上は文句なしで一番となる。そのあとは今決まった順番にまず1の穴をめがけて玉を弾いて転がす。ホールインワンをした場合はそのまま次の2に向けて弾く。しかし、ホールインワンはなかなかできない。ニアピンなら比較的簡単にできる。ところが穴からあと数センチのところで止まってしまうとやっかいなことが起る。自分より先に穴に入った者がいるとその人は、近くにある玉を自分の玉で弾き飛ばしてもよいことになっているので、たいていの場合、近くの玉はみな飛ばされることになる。ゴルフのグリーン上だったとして、パターで転がした玉が誰かの玉の至近距離に転がったとして、その相手が次に打つ番になった時、クラブで届く範囲にある玉はぶっ飛ばしてもいいなんてルールがあったらとんでもないことになるだろう。そのとんでもないことがこのビー玉では許されているのだ。さらに面白いところは、ビリヤード要素もあることである。つまり、壁や相手の玉にぶつけその反射角度を利用して目的の穴に近づけることができるのである。つまり、この遊びは指先を巧みに使って相手を飛ばしたり利用したりしながら進むという、未熟な子には意地の悪いゲームでもあるし、腕を上げればいろいろな技を繰り出せる楽しいゲームにもなる。さらに3,4年生くらいの子の技と大人も含めた大きな子の技とに大差がないのである。それは、ある程度まで突き詰めたらそれ以上に深くはならない遊びということでもあろうが、少なくとも小学生が夢中になるのにはとてもいい遊びである。
「ふるさと」という歌の歌詞の中の「うさぎおいし・・・」という部分を、幼い頃は「うさぎを食べるとおいしいのか」と理解していたという話はよく聞く。子供ならではの聞き違い、言い間違えというのは楽しいものだ。
ザリガニを捕まえたある子が、チャンチー(ここらの方言で指先でパチンと弾くこと。デコピンチのこと)を加えながらさかんに「こいつ、ちっともパワーアップルせんぞ」と言っている。普通、サリガニは刺激して怒らせるとハサミを振り上げ威嚇する姿勢を見せる。刺激を与えているのにそのザリガニはハサミを振り上げないらしい。よく聴いてもパワーアップルと「ル」が聞こえる。
思い出したことがある。4月の中頃、この子と一緒にたんぼ道を歩いている時のこと「遊園地が見えるネ」と彼が言う。ええ?どこに?この付近にはそんなものはない。ブランコなどがある公園のことかと問い返すと、違うと言う。そして「あっちにもあるじゃん」とまったく別の方を指さす。もちろんそんな方にも遊園地はない。公園じゃなくて遊園地だよね?と確認すると、そうだ、と答える。どうもおかしい。遊園地って観覧車なんかがあるところだよね、とボクが言うと、彼は首をかしげて黙ってしまった。会話はそのままになったのだが、後になってボクは確信した。どうも遊園地と団地を間違えていたらしい。なぜなら彼が指さした方向には4階建てとかの四角い建物が並んでいたからだ。遊エンチとダンチ。似ていなくもない。幼いうちならありそうな間違いだ。
きょうもどこかで草刈機の唸る音がしている。ガソリンエンジンで動く草刈機は今や農業者にとって不可欠の道具である。広い草地があるポランにとっても必需品である。子供たちの大好きな水場の周辺やボールが打ちこまれる藪の周辺を、春から秋にかけて4、5回ほど刈る。よく整地されたゴルフ場や田畑の周辺なら機械を動かすのも比較的楽なのだが、ポランのように凹凸がひどく、笹や竹、雑木などまでが生い茂っているような場所は苦労が多い。おまけに子供たちが投げ込んだ木切れ、石、金属製の遊具や、放置した針金、紐まである。高速で回転する歯が欠けたり、絡み付いて回転が止まったりして作業は頻繁に中断することになる。
さらにやっかいなのは生き物である。マムシについてだけは自分の身の危険がなく始末できるのでありがたいが、他のヘビやカエル、カメなどはできるだけ傷つけたくない。でも、じっとしている生き物の場合はどうしても手遅れになることがある。即死ならゴメンでそれなりに心を収めることができる。しかし傷ついた体で逃げてしまった場合は、その残像がしばらく消えない。数か月後に痛々しい姿で再開する不運も時にはある。そんな時は心が本当に痛む。先日はあやうく子亀を傷つけるところだった。慎重にやっていて本当によかった。さりげなく機械を動かしているようでも実はヒヤヒヤしながらやっている。
ベーゴマ修行中
修行中の語らい
オシロイバナ
きょうのおやつ
果てしないおんぶジャンケン
毎日水場で