4月、新一年生たちが登場した。毎年のことだが、本当によく走り回る。ポランの敷地の中は、数日前まで過ごして来た保育園や幼稚園の園庭とは比較にならないほど未整備でデコボコで、段差や水路や障害物も多いだろうに。そんな環境がめずらしくてたまらない様子で、とにかくクルクルと走り回っている。中でもお気に入りは水路の周辺で、流れを飛び越えたり、あるいは飛びそこなって靴を濡らしたり、石や棒切れを投げ込んだり生き物を探したりしている。同じようにいつも池の周辺にいたはずの旧い一年生たちの存在がかすんでしまうほどだ。新しい環境に慣れるのに時間がかかった昔の子どもとは大違いだ。メソメソしている子はどこにもいない。頼もしい限りだ。
さて、このお便りも38度目の第1号のスタートだ。このお便りは事務連絡ではなく、ボク(ロッカク)の個人的な雑感を記したいわばブログのようなもので、読者の父母にとっては楽しいこともあれば耳の痛いこともあるかもしれない。年齢のせいか最近は難しい内容が増えたことは自覚しているので反省はしているのだが、生い先が短くなると、言いたいことは今のうちに言わねばという気持ちが強くなるのか、どうしても思いが強く出た内容になってしまうようだ。だから読んでほしいとは思うが、楽しくもないし得るものもないと感じたら、年寄りのたわごとと思って読み飛ばしてもらってもいい。
ただし、この号だけは目を通してほしい。大事なことを書くからである。それはポランの保育に対する考え方についてである。子どもを取り巻く世間の教育環境や自然環境とポランのそれとの違いは、年々大きくなっているようだ。楽しくあれと願ってしたことが思わぬ誤解を生みかねない。ついそんな心配をしてしまうことも増えた。だからその違いを埋める努力を常にしておかないといけないと思っている。その努力の一つがこのお便りでもあると思っている。
ポランの活動時間帯は子どもたちが学校を終えたいわゆる放課後である。この時間は本来子どもたちが学校という束縛から解放されて自由に楽しく遊び回ることができる時間である。ボクはこれを《子ども時間》と考えている。それは子どもたちの聖域でもあり、大人が犯してはならない時間や空間であるとすら思っている。子どもが子どもたちだけで、子ども時代にしかできない体験を積むための時間と空間なのだと思っている。幼児の段階を過ぎたあたりから11歳か12歳までの小学生の時代、ガキという呼び方が一番ピッタリする年齢の子どもたちにとってかけがえのない大事な時間なのである。しかし、残念なことに今では、「本来は」とか「昔は」とか「だったはず」という過去形でしか語れない時代になってしまったようである。
さて、子ども時代にしかできなくてかつ子どもたちだけでする体験とは何か。一言でいうことはむずかしい。別の言い方をすれば、それは大人が言葉で教えることのできないことであり、5,6年あるいは7,8年かかって子ども自身が身につけてゆく精神的なものである。例えば仲間の内での自分自身の位置づけである。自分はどの程度のランクなのか、仲間と遊ぶうちに自然に理解するようになる。自己主張をどこまでできるのか、しない方がいいのか、自分のランクによって、相手によって、あるいは場合によってその程度は微妙に変わる。その加減が分からないと、バカにされたり煙たがられたり、時には仲間外れにされてしまうことにもなる。人間関係と呼ばれる阿吽の呼吸のようなものでもある。それが体で分かっていないと何かとギクシャクすることになる。仮にイジメの原因になったとして、親や教師が解決のために口を挟もうとすると本人から拒否されたりすることもある。仲間関係の微妙な世界は外から手を突っ込もうとしても当事者にしかわからないことが多く、こういう時はこうしなさい、あるいはしない方がいいと、大人が単純な言葉で教えることはできないものである。
あるいはレジリエンスというのもそうだ。たくましさにも柔らかな強さ・復元力・しなやかなたくましさがある。仲間との時間の中で我慢したり、ぶつかったり、譲り合い、共感し、手抜きをしたり、かばったりしながら過ごすことで心が様々に動き柔軟に育つ。とくに物事を曖昧(あいまい)にできることは子どもの特性である。子どもの世界はルーズなこと、いい加減なやり方、不正、不公平などが横行している。ジャンケンでの組み分けや遊びのルールなどはとかくボス的な子の言いなりのことが多い。一方、大人が提供するスポーツ、CPゲーム、学校教育などでは、勝率や着順を判定し成績をつけるのが当然で、不正があったり曖昧な判定ではその活動自体が成り立たない。少年サッカーや少年野球では、手抜きなどしていたらコーチから叱咤の声が飛ぶ。しかし、物事を曖昧にできることや適度に手を抜くことは忍耐や気分転換にもつながる大事なことである。心を病まない、心が折れないために必要なことなのである。曖昧と柔軟は表裏一体でもあり、大人が、柔軟はいいけど曖昧はダメだとか、言葉で具体的に説明できるものではないのだ。
曖昧さに限らず、大人というのは子どもが不正やだらしないことをするのを見ると、どうしても口を挟まないと気が済まないようである。頑張らない子どもを見るとガンバレガンバレと応援してしまう生き物のようである。下手なやり方、遠回りなやり方をしていると丁寧に教えてやるのが義務や親切だと思ってしまう動物なのである。学校や家庭ならそれでいいしそれが当然だと思う。大人が効率よく教えることで伝授できる智恵や技術がある。でも、放課後だからこそ別の学び方、つまり大人が介在しない学び方があっていい。いやあった方がいいと思う。教えられ指導され評価されるのではなく、自ら発見し、編み出し、吸収し、学びとる存在になれる方がいい。とことん失敗から学ぶこと。誰かに言われたからではなく、やりたいことだけを自分の意志で選ぶこと。時間の制約なしに好きなことに没頭することで深い体験を味わうこと。じっと見つめていることで物事の原理や原則を推察すること。できないことがくやしくて、陰で努力して技術やコツを修得すること、などである。あるいは、叱られて反省するのではなく、自分のしでかしたことに後悔や嫌悪感を覚えて二度としないと心に誓う反省のしかたもある。ボクにはどうもそんな学び方の方が本物のように思えてならない。そんな本物の学びを身につけるための時間が子ども時間であり、ボクの考える放課後体験なのである。
しかし当然、矛盾が生じる。ポランには時間や空間に制約があるし何より目障りな大人が何人もいる。大人の目がゆき届いてしまう。もちろん学童保育所である以上、少なくとも子どもたちの肉体の安全は守らなければならない。あるいは遊びをより活発で豊かなものにするためにも大人の存在は必要である。そこで、つまるところ、ポランの保育は、そういう矛盾と制約の中で、それでも最大限、理想とする本来の放課後に近いものを目指す、ということになる。具体的には、ポランの大人は不親切である。あまり子どもの要求に応えない。あまりほめたり励ましたりしない。あまり喜ばせようとしない。甘い顔は見せない。けんかもすぐには止めようとしない。危険なことも時には見て見ぬふりをする。そんなことになってくる。ケガの手当ても、小さなケガなら自分ですればいいし、上級生が手助けできるように消毒薬や絆創膏などは自由に使えるようにしてある。ノコギリなどの道具も勝手に持ち出してもいいことになっている。(ただし、持ち出した物は戻す習慣がつくまではうるさく言う。)
またポランの遊びは大部分が昔の遊びである。Sケン、8の字、サクラおとし、などは激しくて痛くて汚れる格闘遊びだ。竹馬、スケボー、ベーゴマ、ビーダマ、元少(ハンドテニス)などは上達するのに時間がかかる。2,3日どころか、毎年の繰り返しで数年後にやっとそれなりになる。ナイフを使う箸づくりや凧づくりはケガもする。指が痛くなるなどつらいことも多い。どの遊びも楽しさがわかるまでのハードルが高いものばかりだ。それこそが昔遊びの優れた点なのだが、スイッチ一つで楽しい世界に手が届く今の時代の子どもたちはともすると忍耐することやコツコツと努力することが苦手で、ハードルは昔と比べて相対的に高くなっている。でも、すぐに面白くなるものはすぐに飽きるのが常で、本当に面白いものは簡単に手に入るものではないことを教えてくれるのもそうした昔の素朴な遊びだと思う。歴代の多くの子どもたちが笑顔でその遊びを指示してくれたからこそこれまで続けられたとも思っている。
危ないことや乱暴なことに対する許容範囲はポランの場合、世間に比べ広いと思われる。だが、先日新一年生が遊ぶ様子を見ていて、これはちょっと口を出しておかなくてはならないということがあった。連日のように水路の周囲で遊んでいるのだが、靴もズボンもビショビショになっている。こんな遊び方を保育園や幼稚園でいつもしていたとは思えない。ハメをはずしたような遊び方を楽しみ、若干悪乗りしている様子もうかがえる。そんな中、片手でつかむのもやっとなくらいの石を水際にいる子のそばへ投げつけて、水しぶきがかかるのを喜んでいる姿が目に付いた。コントロールもままならない子が投げる石はどこに飛ぶかわからない。しかもその大きさがちょっと程度を越えている。危険を予想できていないと直感したので、すかさず注意をしておいた。
別の日、別の場所。雨上がりのブランコの下に大きな水たまりがあった。ブランコをこぎながら足でそのドロ水を蹴散らしてキャッキャといって喜んでいる。そこまでならまあよかった。しばらくして目をやると悪乗りが始まっていた。ブランコに座って水たまりの上を揺れているひとりの子に向けて、数人の子が長靴に汲んだドロ水を頭といわず顔といわずかけまくっている。かけられている子は半べそである。これもちょっと常識の限度を超えていると感じたので注意することにした。
そんなことがあって気がついたことがある。語気を強めて注意をしている最中、S君と目が合った。真剣な表情の中にちょっとけげんな様子、何かを探っている様子が伺えた。『そうかこれはポランでもいけないことなのか』、と初めて腑に落としているように感じられた。そのとき、ボクも腑に落ちることがあった。この年齢の子がこれまでにやってきた石投げや泥水遊びは、たかが知れていて、厳しく叱られるほどではなかったのではないか。ケガにつながることとそうでないことを体験してはいないということだ。危険なことや汚いことは限度をわきまえていないと困ったことになる。これまでは新一年生といえどもこの程度の常識はわきまえているだろうと軽く考えていたが、どうもそうではない時代になっていると考えておく方がいいようだ。
春休みは弁当を食べる。出勤前の忙しさの中で弁当を用意するのはなかなか大変だろう。でも弁当箱を開けた瞬間の子どもたちの笑顔はお母さんの努力と確実に比例している。笑顔に立ち会えないお母さんに代わって保証する。ところで、子どもたちに大人気の裂けるチーズだが、弁当が終わってからもかなり長い間チビリチビリ食べている。手の中でいつしか薄汚れ、なまあったかくなっている。その細い一筋を「ロクさん、コレあげる」と差し出してくれる。以前は受け取っていたが最近はノーサンキューである。チーズはほうばるくらいがうまいのだ。人気の「裂けチ」は、ボクにとっては勧められても遠慮したい「避けチ」である。