ベーゴマ大会

深まる秋
代休の日、遊びに出かけたハンノキ公園。ナンキンハゼの木が赤みを増していた。紅葉の名所のような派手さはないが、近隣の公園でもケヤキやナンキンハゼの紅葉を楽しめる。夕日に映える小鷹野公園のラクウショウ(落雨松)もみごとで、それを見たくてわざわざ出かけることがある。豊橋博物館の前あたりも美しい。

 

笑いが暴力になる

フェイクだとかデマや中傷が我々の生活の中に根付き始めたのは、米大統領(元、次)トランプという人が登場した時からだとボクは思う。SNSやネット社会がその浸透を後押ししたのだろう。《無責任》や《一方通行》というワードがその底に共通してある。真剣にがんばっている人の行動に対して「そんなマジになんなくても・・・」と、茶化したり冷笑したりするのも似たような現象だ。今は暮らし方に大人と子供の区別がない上に、子どもたちは嗅覚で面白そうなことに反応するので、それらは子供たちにすぐ影響する。それに子供は《責任》なるものを習得中の成長段階にある。だから無頓着で悪気がない分、問題はより深刻かもしれない。たとえば、真剣な努力や素直な発言が、おふざけタイプの子によって茶化され笑われた時、発言した子は家に閉じこもってしまうほどのショックを受けるかもしれない。周囲の子の心にも「こんなことを言うのはやめておこう」と思う気持ちが芽生え、自分の意見を述べたり、必死にガンバルことをためらうようになることもありうる。素直な努力や言動は子供の成長に必要だと思うのだが、大人の複雑社会の影響を受けている子どもの心はなかなか複雑だ。こんな新聞のコラムを読んだ。嘲笑や冷笑について『そんな笑いが、その人がそれまで積み上げた努力や怒りを無に帰すことになる。そういう笑いは暴力である』。生活や人生をかけて差別と闘って来た人々の真剣な努力と、無責任な笑いが同等とは・・・。煙たがられるジジイとしてボクは子供に言おう。『ここは笑うところではない!』と。

ハンノキ公園の遊具
ハンノキ公園の遊具で遊ぶ。適当に近いのでよく出かける。シイの実を拾って帰る。
シイの実
そのシイの実を食べる。実入りの良いものだけを炒る。殻がはぜたものを割り、中から白い実を取り出して食べる。香ばしくて素朴な味がする。ポリポリ。
天体望遠鏡
月や星が見やすい季節になり、天体望遠鏡が登場した。見慣れた月でもクレーターまで見えると別物になる。土星や金星や木星となるとさらに感動ものである。この先、火星も加わる。 星座はなかなか見分けるのがむずかしいが、分かるようになるとうれしい。星を線でつないで空に絵が描けるようになるとさらに興味が深まる。
サツマイモ
いただきもののサツマイモ。毎日のようにふかしておやつのおまけに出す。ときどき輪切りのフライドスイートポテトになる。
ケヤキの落葉
ケヤキの落葉を集める。28年ほど前に植えたケヤキが毎日葉を落とす。子どもたちは掃き集める作業が楽しいらしい。集めた落葉は畑の肥料になる。
元少
元少(げんしょう)というボール遊び。ハンドテニスとも。「田」の字の中に4人が入り素手でテニスボールを打ち合う。運動量が少ない割に、下半身や反射神経など、鍛わるものが多い。子どもから年寄りまでできるところもいい。  ボールゲームである以上、ボールの着地点が勝敗を左右することが多い。その判定はその場の全員でするのがルール。全員がラインズマンであり、ビデオ判定員である。でも子供たちの判定はズボラでいい加減なことが多い。だから言い合いも多い。ところが、その言い合いは《一騎討ち》などを経てズボラなりに決着がついてゲームはすぐ再開する。言い合いと決着を繰り返しながらも楽しく続く。「ズボラ」はしなやかさ、ゆとり、遊び(ハンドルなどの)にも通じる。ズボラと紙一重の「しなやかなたくましさ」はこうした子供時代の過ごし方で自然に身につけるのが一番いい。
世界一周という鬼ごっこ
世界一周という鬼ごっこ。円を四つに区切り世界の4大陸とみなす。それぞれの間にある海には鬼がいる。その海を飛び越えて世界一周を成功させると、既に捕まっている仲間を助けることができる。
版画カレンダー
版画カレンダーを作る。下絵を決め、白黒を決めて、彫り始める。版画というものは、誰がどのように彫っても、刷り上がってみるとどれも味わいがある。そこが魅力でもある。