コロナの感染がやや下火になり、熱中症が心配される季節を迎えて、政府はマスクを外してもよい場合について見解を発表した。あるニュースの街頭インタビューで、屋外でマスクを掛けている若者が、自分がマスクを外さない理由について答えていた。「国がもっとはっきりと外してもいいと言ってくれれば外すのに・・・」と。オイオイ、待てよ若者君。マスクの着脱くらい自分で決めなよ。思わずそんな言葉が出そうだった。
以前なら、マスクは風邪を引いた時か花粉症対策か、ちょっとした変装気分で使うものだった。マスクにコロナウイルスの拡散を防ぐ効果があることが分かり、世界中に広がった。もともとマスクへの抵抗感の薄かった日本では、空気を読むことの得意な国民性とも相まって、かなりの普及率になった。そして今、エチケットやマナーのための、たかがマスクだったものが、その使用法を政府に決めてもらいたいと国民が思うほどの存在になっている。
3月下旬の山登りのときにマスクを外してもいいと子供たちに伝えて出かけたのだが、外したのは、普段からあまりマスクをしない子たちを含めて三割ほどだった。多くの子が息づかいの荒くなる山登りの時でさえ外さなかった。マスク生活を続けていることに弊害があるという指摘もある。相手の口元の表情を読む機会が減り、その結果、人の気持ちを読むことが苦手な子供や若者が増え、職場や学校での人間関係に悩むようになるのではないかという懸念だ。今のところ目の前の子供たちにそれらしい様子は感じられないが、どういうことになるのか、今はまだ分からない。
マスクの着脱については個人の臨機応変な判断に任せればいいと思うが、子供たちの場合、お茶を飲みたい時やトイレに行く時にも大人に許可を求める子がいるのだから、マスクだけ臨機応変にというわけにはいかないかもしれない。ニュースの中の若者が言うように、はっきり指示してやった方がいいのかもしれないが、結局は学校の判断や世の中の動向に左右されるのだろう。子供たちも空気を読む時代だ。決め手は「みんな」がどうするのか、だろう。若者が自分の判断よりもどこか上からの指示を待つ傾向は、コロナ禍によって助長されたような気がする。普段ボクは「そんなことぐらい自分で考えろ」と言うことが多いが、マスクの着脱も早く「そんなことぐらい」の中に入るようになるといい。
《ポランの格闘遊びは、体力の他にも戦うための知恵や気力を育て、心をスッキリさせます》と胸を張って言えた時代は確かにあったが、残念ながら最近はちょっと事情が変わったようだ。
野球やサッカーを除いて、ポランの遊びをリードしているのは完全に女の子たちだ。だが、高学年ともなるといろんな思春期の入り口に立つ女の子たちは必死に戦うことをためらうようになる。その気持ちはとてもよく分かる。だからここ十年、それを尊重して容認するしかなかった。その結果、ゲームが始まっても互いに相手が攻めてくるのを自陣で待つばかりで、いつまでも闘いは始まらなくなった。柔道なら積極性が欠けるとして両方に《指導=減点》が入るところだ。攻め込んだとしても遠慮と配慮がぶつかりあって決着がつかない。男子は早々と押し出され、次の回が始まるのを待っている。(※低学年のグループは相変わらず活発に闘う。)
待てよ。子供を尊重するとしても、このままでいいのだろうか?フトそんな疑問が湧いた。こんな遊び方ではあまりメリットはない。格闘スポーツをする女性も増えた時代だ。手を打ってみよう。まず格闘遊びの意義について話す。
①精一杯力を出して必死に戦うことで本当の力がつく。
②弱いチームでも勝つ方法はある。団結力や作戦力、知恵や工夫だ。
そういうものは必死に戦うときにしか生まれてこない。
③ルールに従って闘っているのであって喧嘩ではない。
ラグビーと同じで、終わればノーサイド。ゲームの中で起こった痛いことはお互い様だと思って恨みっこなし。
①や②は一般的なことだが、最近は③のメリットが大きいと感じている。今は喧嘩をする子が少ない。自己抑制をする子が増えたのだろう。社会がそれを求めた結果でもある。喧嘩をしなければ《仲直り》することもない。仲直りをするには喧嘩をするより多くの勇気や配慮が必要だ。でも、喧嘩を奨励するわけにはいかない。そこで格闘遊びである。ライオンの子がじゃれ合い噛みつき合うのと同じで、子供の成長には疑似的な喧嘩としての格闘遊びが必要なのだと思う。遊びが終わればノーサイド。許し合い、たたえ合い、認め合う。疑似的な仲直りである。普段は相手の気分を害さないことを優先させている女の子たちが、せめて遊びとして体をぶつけ合い、心が解放されスッキリし、スッキリしているからノーサイドになれる。あんがい大事なことではないだろうか。
30年ほど前、まだ車でのお迎えが無かった時代の夕方、茶色く汚れた体操着の上にランドセルを背負った子供たちが肩を組んで夕焼けの中を歩いて帰って行った。つい今しがたまで敵と味方に分かれて激闘を繰り返していた連中だ。なつかしい光景だ。