恒例の年末劇は2年続きでコロナ禍の影響を受けることになった。過密を避けるために舞台の上は6年生だけにして他の学年の子は客席に広がってもらうことにした。そして劇の内容も、これまでのような童話を原作としたものではなく、星新一の有名な短編「おーい でてこーい」を拝借した。この物語はゴミ処分について警鐘を鳴らすような内容になっている。これが何と環境汚染に対して人々がまだ無頓着だった60年も前に書かれているのだから、星新一氏の洞察力には恐れ入るばかりだ。
二つのことに苦労した。一つは、小学生にも分かるような劇にすること。すべてのゴミが結局は自分たちに戻って来るというテーマは、今や星氏の暗示通りに地球温暖化という現象として完全に現代人の暮らしを脅かしている。それを1、2年生、いや、せめて3、4年生以上には分かってほしいと思った。もう一つの苦労は練習風景を見られないようにすること。子供たちがみな同じ時間と空間で過ごしていて、他には練習場所がない状況の中で秘密裏に練習するには限界がある。ここはもう完成度が下がってもやむを得ないと腹をくくることにした。
さて、実際に上演した劇の様子はDVDなりネットなりで見ていただくとして、この作品を取り上げたボクの思いについて書いてみたい。かれこれ30年ほど前までのボクは地球環境の悪化の問題について子供たちに語る機会をよく作っていた。当時、児童クラブの前を流れる三輪川で子供たちとカメやフナをよく捕まえていたのだが、片目の無いフナや片足の無いカメが頻繁に捕れるようになっていた。子供たちが自然環境の悪化について考えるきっかけが身近にあったのである。しかし、説明を続けるうちに、このたぐいの話は大事だけれど「君たちの未来は暗いヨ。このままだと困ったことになるゾ」と言っていることになり、子供たちがかわいそうではないかという気持ちが頭をかすめるようになった。それ以来、あまり触れないようにしてきたのである。
でも、最近、グレタ・トウインビーさんという若い女性の声に世界中の若者が呼応して行動し始めた。2030年だとか2050年までに脱炭素だとか、悠長なことを言っている年配の政治家や経済人たちに、自分たちの未来は任せておけないというのだ。若者たちは暗い未来予想にめげてなんかいない。切迫感をもって何とかしようとしている。そんな若者たちの行動に勇気づけられ、背中を押されてこの年末劇ができたようなものだ。
台本が完成して6年生に読み聞かせた時、最後の場面で「アー、そういうことかア」という声が上がった。その時点でボクはこの劇は7割成功したと感じた。そして粗削りなままで本番を終えた後、下級生の何人かから「げき、分かったよ」とか「アレって○○ってことだらあ」と、暗示的な結末を理解してくれたらしい幾つかの声を耳にした。いつもと一味違う喜びがあった。
さて、地球の温暖化はその速度を加速度的に増している。12月に巨大な竜巻が発生し、大きな台風が被害をもたらす。アフガニスタンでは中村哲さんが苦労して完成した用水路の水源である高山に降り積む雪が減っている。中央アジアの国では26歳の青年が子供の頃に遊んだ大きな川が干上がっている。水に恵まれた日本にいると実感のできない異常が急増している。極寒の地では永久凍土が融けている。ウイルスで病死して凍土の中に閉じ込められていたトナカイなどの死体が地表に露出すると、死体の中で眠っていたウイルスが生き返るという。コロナが終息しても次の未知なるウイルスが出現する恐れがそんなところにもあるようだ。温暖化は気象災害よりももっと直接的に人間の命や暮らしを脅かすことになるということだ。レジ袋やストローやゴミの分類のもっともっと先を考えないといけない段階にあると思う。
劇のテーマ曲にしたのはブルーハーツの「情熱の薔薇」。30年前の曲である。激しく体を揺らし、マイクをなめるようにして歌うボーカルが印象的だった。歌詞も、昨今の歌詞が複雑難解であるのに比べ、青春の疑問をストレートにぶつけている。
見てきた物や聞いたこと
今まで覚えた全部
デタラメだったら面白い
若者らしい反抗心が好ましい。一方で
涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方
と感傷にも訴える。6年生たちが劇の最後に歌ったラストの2行は、コロナ禍で一段と閉塞感が深まったようなこの時代にあっても無力感を失わずに生きようと呼びかけているようでもある。
情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう
花瓶に水をあげましょう 心のずっと奥の方