田植えが終わったばかりの田んぼでカエルを探す。
20年前の6月、大阪の池田小学校で無差別殺傷事件が起きた。え!またか。多くの人がそう思ったはずだ。当時、子供の命を残忍なやり方で奪う事件がいくつか起きていたからだ。どれもそれまでの常識では考えられないような猟奇的でショッキングな事件だった。中には14歳や12歳が起こす事件まであった。当時の教育や保育の現場に事件が与えた影響はとても大きかった。日本中の学校が地域住民に対して自由な出入りを制限するきっかけとなったのもこの池田小事件であった。
ボク自身も受けたショックは大きかった。事件を起こした人間の成育環境や生い立ちを深く考えるようになり、関係した書物を読み漁り、専門家が出るテレビのワイドショーまで観るようになった。そしてそれまではポランでの子供たちの過ごし方について「楽しく遊べばいいじゃん」と気楽に考えていたのだが、事件の背景や遠因を知れば知るほど《放課後の過ごし方》についてそんなノー天気ではいられなくなってしまった。たかが遊びと思ってはいけない。子供時代を仲間と必死なまでに遊んで育たなくてはいけないと思うようになった。習い事で事足りると思うのは間違いだ。ましてや削っていい時間ではない。子供の遊びには本来、明確な目的などない。それがためにとかく軽視されがちだが、けして無駄な時間などではない。子供時代に対するボクの認識はさらに深まった。そして子供たちが遊びから自然に身につけるものを考えた結果、今、ポランで努めているように、大人の出る幕はなるべく少ない方がいいし、大人の役割は子供たちが屈託なく遊べる環境を用意すること、という考え方も生まれた。
つい先日、「いい子に育てると犯罪者になります」というタイトルの本を届けてくれる人がいた。著者は臨床教育学者で、受刑者との面接を繰り返しながら彼らの更生を支援する活動をしている。受刑者に、事件に至った過程を回想させながら事件の原因を分析する。作文を書かせて反省を促し、更生させ社会復帰につなげる。そういう作業を繰り返しながら著者は犯行の原因が、犯罪者自身も気づいていない幼児期の家庭環境にあると確信するようになる。受刑者が、事件の直接的なきっかけやカッとして及んだ犯罪行為だけを見つめている間は、再犯はしないと涙ながらに誓おうが納得できない。幼児期に生じた無意識の底にあるはずの歪みに気付くまで著者は辛抱強く待つ。そこにこそ本当の原因があるからだ。幼児期に何らかの理由で親に甘えないで育つ子は甘えない分、周囲から褒められることが多くなるものだ。そうなると期待を裏切らないためにますますしっかり者でガンバリ屋でいなきゃあと思うようになる。その結果、無意識のうちに無理をしてしまい心に歪ができる。それが成長後に何かのきっかけで暴発する。本のタイトルの「いい子」というのは、幼児期に何らかの原因があって親に十分甘えられず、わがままも言わず頑張った子のことである。アイドル歌手だった酒井法子(のりピー)が復帰会見でマスコミに反省の弁を涙を流しながら発表した時も、この著者は納得せず、本当の原因が彼女の複雑な生い立ちにあったことを突き止める。
さて、冒頭の池田小学校の事件の犯人であるT(事件から4年後に処刑)も母親との関係は最悪だったようだ。ボクはこの本を読みながら(どの本を読むときもそうだが)ポランのことを思う。ポランの子は幼児期の後の少年期にいる年齢の子供たちだが、ここもやはり大事な時期であることに変わりはない。どの子にも屈託のない楽しい時間を過ごしてほしいと思う。「楽しい」の中には、友達とのちょっとしたもめごとやトラブル、そして孤独感のようなマイナスの体験も含むのだが、この時期に大事なことは何よりも仲間との関係性である。本物の自己肯定感は仲間との関係の中から育つのだと思う。周囲の大人に与えられるのは仮の自己肯定感で、それも仲間に認められた時に初めて本物になるのである。大人にはできないことがあるということでもある。だからボクにできることはせめて大事な子供時代の舞台を整えることだと、池田小学校の事件を含む前後の十数年間(子供受難時代と呼びたい)を経験して、そう思うようになった。