針

ノーサイドの精神で

ラグビーのワールドカップは南アフリカの優勝で幕を閉じた。日本にはラグビーのプロリーグがないのでテレビで放映されるのは早慶戦くらいだ。だからこれまではどちらかといえば馴染みのないスポーツだったが、これを機にラグビーのファンも増えることだろう。ただし、だからといって誰にでもできるスポーツでない。なにせあの肉体である。普通の人間がやったらぶっ壊れてしまう。見て応援するだけのファンにしておく方が無難だろう。

こんな細身のボクだが、高校時代に体育の授業で経験したことがある。身長があるということだけでフォワードにさせられて最前線でスクラムを組んで押し合ったのだが、肩や首が強烈に痛かった記憶がある。その頃からノッコンとかスローフォワード、ラインアウトなどの用語は多少知っており、もちろん《ノーサイド》がゲームの終わりを意味することも知っていた。しかし、なぜわざわざノーサイドと言うのか、サッカーやバスケのように単に笛やベルやブザーを鳴らせばいいのではないか、なぜことさらにそんな言い方をするのか、そこのところがいまひとつ分かってはいなかった。でも、今回、テレビで幾つかの試合をじっくり観戦してその意味がとてもよく理解できた。 ラグビー

ノーサイドだからサイド(側)が無い。つまり相手側だとかこちら側だとか、敵とか味方とかが無いという意味である。引き合いに出して申し訳ないが、卓球などの場合、試合が終わると互いに握手はするが、負けた選手は悔しそうな顔を見せることも多いし、試合の終わり方があっさりとしている。サッカーでも、大きな試合になると終わりの笛が鳴ったとたん、負けた側はピッチに座り込んだり、放心状態のまま天を仰いでいる選手がいる。ところがラグビーでは、試合時間が終わると、勝った方も負けた方もそれぞれの感情を爆発的に表現することが少ない。終わったことにホッとし、疲れ切ったようにも見える表情で、敵味方の別なく健闘をたたえ合う姿が見られる。たぶん自然にそうなるのだろう。勝ったことはうれしいし、負けたことは悔しいけれど、そんな結果よりも今はお互いに全力を出し切ったことをたたえたい。持てる力を出し切って精も魂も尽き果てるまで互いによくやったことを認め合いたい。そんな気持ちが自然に湧き上がってくるのだろう。それは、他のどのスポーツよりも激しくぶつかり合い、流血や打撲をくり返し、汗まみれになりながら必死に一つのボールを奪い合う。ニタニタしていたり、ガムをクチャクチャやりながらできるスポーツではおよそない。これほど《必死に》という言葉がふさわしいスポーツもない。そして80分の死闘が終われば、勝ち負けもユニホームの色も皮膚の色も、そんなことはどうでもよくなる。テレビの画面を通してすら選手たちのそんな気持ちが伝わって来る。それはまさにノーサイド。ゲームが終了したことをノーサイドと呼べるのはラグビーだけだと、あらためて納得したものである。 ラグビー

さて、ポランには二つの組に分かれて勝敗を争う遊びが多い。ジャンケン遊びは別として、格闘遊びの場合、親しい友達と敵味方に分かれて激しく闘うことになる。低学年のうちは相手かまわずガチンコのぶつかり合いになるのだが、高学年になると単純なガチンコとはいかなくなる。日頃の関係性や異性に対する微妙な気持ちが戦い方に影を落とすようで、どちらともなく手心を加える、相手を選ぶ、激しい闘いを避けるなどするようになる。友達関係にヒビが入ることを心配する気持ちは分からないではない。そういう意識は女の子の場合により顕著なので、年度によっては高学年女子の間で人間関係がややこしいことがあり、それが全体の闘い方にも反映してどうも爽快でスッキリした明快な戦いぶりが影をひそめる。見ているボクは、そんなことのなかった昔とつい比べてしまって、もどかしさを募らせてしまう。前号に書いたように格闘遊びから学ぶものはいろいろある。でもそれはやはり真剣に必死で立ち向かう時に頭も体もよく使うからであって、必死さに欠ける場合は学ぶものも少なくなると思う。今回、頭に包帯を巻いたり血をにじませたりしながら笑顔でハグし合っているラガーマンたちを見ながら、ポランの子にノーサイドについてあらためて話をしてみたくなった。いろいろあっても終わればノーサイド。それがいいな。

3つの時間

人間の生活時間を3つに分類する考え方がある。①動物的時間、②社会的時間、③文化的時間だ。①は、食べたり眠ったりして生命を維持するための時間。②は、労働や勉強など経済活動に費やされる時間。③は、音楽やスポーツ、趣味や遊びの時間である。子どもにとっては学校生活やある程度強制的に行われる受験勉強のような時間は社会的時間である。今の時代、大人も子どもも社会的時間が増えている。経済活動を最優先する現代人は、動物的時間や文化的時間を削ってでも社会的時間を増やそうとする。しかし、社会的時間においては効率が求められ、評価や成果が問われることが多く、その時間が増えると人間は生きることがつらくなる。結果、過労死や自殺、うつ病など精神的疾患に苦しむ人が増える。

それを防ぐ手だてが文化的時間を増やすことである。スポーツや趣味や遊びなど、楽しい活動時間は脳を活性化することが研究で分かってきた。社会的時間での人のつながりはともすると人を精神的に追い込むことになるが、文化的時間での仲間との交流は人を支える方向に働き、心の病を予防する効果を生む。だが現実の世の中は、楽しく過ごしていると「ちんたら遊んでいる」とか「遊んでばかりいてはロクな人間にならない」とか言われることがまだまだ多く、文化的時間は軽んじられ、定年後に先延ばしされたりする。「働き方改革」を云々するなら、目先の生産性を求めたり効率ばかりを重視するのではなく、遊びの時間を多くすることでみんなが元気で生き生きと働けることを考えた方が結局、生産性は向上するはずだ。

子どもは遊ぶのが仕事、と言われた時代もあったが、今はどうもそうではないようだ。子ども時代から勉強や学業での成果を求められることが多い。遊びという文化的時間が少ないまま社会に出た人は、将来、自分自身も上手に遊んで息抜きすることができないばかりか、他者が遊ぶことにも寛容になれず、本当の意味での楽しい職場を作ることにも積極的になれない。悪循環である。

で、結局、ボクが言いたいことは、子供たちをもっと遊ばせましょうヨ、ということである。勉強べんきょうで尻を叩き、目に見える成果を期待したい気持ちも分かるが、子ども時代に遊びを堪能しないで大人になると、結局、いつまでも子供じみた遊び方から抜け出せないタイプの大人になってしまう、というのがボクの見るところである。大人にとって遊びは息抜きやリフレッシュメントかもしれないが、子どもにとっての遊びは成長の糧であり、必須科目である。遊びが足りていると子供らしい子どもに育ち、学ぶべき時に学ぶことができる子どもに育つのだと思う。文化的時間としての遊びを大切にする社会になれば、人はもっと楽しげに生きていくことができるのではないだろうか。

遊び紹介 「運がよけりゃ」

雨の日の遊びである。戦うわけでもないしジャンケンするわけでもない。文字通り、運次第で結果が決まるゲームである。こちらが用意した設問に、自分が当てはまればその場に残り、当てはまらなければ脱落する。そして幾つかの設問をクリアーできた子がただ一人になったらその子がその回の勝利者になる。そして何か景品を受け取ったらまた全員が復活して次の回が始まる。ただそれだけのゲームである。その設問というのは「あなたには兄弟(姉妹)がいる」とか「あなたの家には犬はいません」とか、「あなたは今、靴下をはいている」とか「あなたの担任教師は男である」などである。もちろんなるべく公平になるように「あなたの担任教師は女である」や「あなたの家には犬がいます」などの設問も用意してある。ただし、まったく無作為に選ぶので、例えば「あなたは男子です」とか「あなたは3年生です」などの設問が最初に出るとその時点で半数もしくは大多数の子が脱落することもある。反対に「あなたは新幹線に乗ったことがある」とか「あなたの家にはテレビがある」など、ほとんどの子が当てはまるような設問もある。どこでどの設問が出るかも含めて努力のしようもガンバリようもないわけで、まさに運次第、運がよけりゃあ勝ち残る、というゲームである。気楽なだけに人気がある。設問の中には「あなたは今朝、パンを食べた」とか「あなたは今朝、ハミガキをした」など、本人の正直さを信用するしかないものも敢えて入れてある。

フォト点描

十一月三日に行われた恒例の「親子あそび合戦」は、大人チームが勝利した。いつもなら「子どもを楽しませてやろう」という思いが先に立つのが父母の気持ちだろうが、この日ばかりはいつの間にか自身が童心に帰ってしまい、つい夢中になってしまう。大人も、もちろん子どもも、笑顔になれるとてもいいプログラムである。

お助けマン
お助けマン
ジャンケンゲームの勝敗は運次第。でもゲームのコツを熟知した子どもたちが有利。
桜おとし
桜おとし
格闘遊び。父親チームは片手しか使えないがそれでも子どもたちに勝ち目は少ない。大人の強さを思い知ることにも意義はある。
攻防
必死の攻防。つぶされる子がいないかとヒヤヒヤ。
騎馬
ポラリンピック最後の種目、騎馬。余裕で走る大人の馬。
記念撮影
トロフィを囲んで記念撮影。
オナモミ
秋の遊び。ひっつき虫(オナモミ)は投げ–合うほかに文字を作って遊ぶこともできる。TwicEと読める。女の子に大人気のグループだとか。
泥水遊び
みんなで掘った大きな穴に大雨で水がたまった。タイヤを沈め、板を沈め、バチャバチャと泥水遊び。まん中はかなり深い。