つめあと

ふとジャンヌ・ダルクを

台風15号が千葉県に想像を超える被害をもたらした。停電や断水は解消したものの、家々の屋根にはまだブルーシートが目立ち、ゴルフ場の鉄柱はまだ屋根に食い込んだままだというのに、今度は19号だ。東日本に大雨を降らせ、千曲川や阿武隈川など大小の河川の周辺に大きな被害をもたらした。「これまでにない」「観測史上初」「50年に一度」という表現もやがて日常化し、人々は驚きの感情を持たなくなるのではないだろか。

カリブ海のハリケーンもインド洋のサイクロンも、超巨大なものが発生、上陸し津波のような被害をもたらしたという。北極海では万年氷の表面が融けて海のようになった上を犬ゾリが走っているという。フランスでは熱波で大勢の人が命を落とした。南米アマゾンの火災では広大な面積が消失している。このあたりの森林は地球の肺とも言われ、地球規模で二酸化炭素を吸収し酸素を供給している。今後、地球規模の悪影響が起ることが心配だ。赤道付近の海抜の低い島々では水没が始まっていることは以前から報告されている。島の人々にとっては死活問題以上の大問題だ。国土そのものが水没の危機にあるのだから。北欧では数万年前の氷河があと2,3メートルの厚さを残すのみとなっている。こちらも国土の形が変わるような一大事だ。最北の地や海洋の影響を受ける場所ほど変化は顕著だが、温帯地域の日本でも夏の高温は続いている。この夏も35度を超える日が続き、テレビは連日熱中症に対する注意を叫んでいた。

地球が温暖化していることは疑いようがない。しかし、米国の大統領はこの問題に対してそっぽを向いている。フロリダの豪邸やその周辺がハリケーンで被害を受けたことはないのだろうか。彼に限らず、気候変動の異常さをあまり真剣に受け止めていない人も多いと思う。あるいは不安に思っても、何もできない、自分にはどうしようもないと感じている人もあるだろう。深刻に受け止められない理由の一つは、環境の変化が日々の生活の中ではっきりと見えないからではないだろうか。大きな災害が発生したような時でなければ、一見、平穏な日々が続く。自分に被害が及ばなければ、猛暑の夏はクーラーをガンガンにかけてしのげばそれでやっていける。秋になり冬が来れば、のど元を過ぎた熱さのように猛暑の夏を忘れる。冬が寒くないのは異常なはずなのに暖冬はむしろ歓迎される。明日どうなるわけでもないし、来年、日本列島がどうかなるわけでもない。百年後には平均気温が3度上がると言われてもピンとこない。そんなことより目先の仕事のこと、ビジネスのことを優先してしまう。切迫感を煽らないことが救いであることは確かだが、同時にその悠長な変化が温暖化を食い止める努力への真剣さを減じていることも確かだろう。

うれしいような残念なようなニュースがあった。スウェーデンの女子高生が地球温暖化を食い止めようと行動を起こしたという。彼女は一人で、金曜日に、授業をボイコットして座り込みを始めた。世界の若者がそれに同調してデモなどを始めたというのだ。20年先の環境悪化の影響を大きく受けるのはそのグレタ・トゥンベリさんたち今の子どもたちだ。若者たちが真剣になるという意味では心強い気がする。だが一方で、国連に集結した各国の環境問題責任者たちの議論はグレタさんを失望させたようで、落胆した彼女はマイクの前で会場をにらみつけ、涙ながらに訴えた。「よくもそんなこと(自国の国益ばかりを優先して実のある対策をとらない)ができる。あなた方は間違っている。私たちを見捨てることは許さない」と、怒りをぶつけた。地球の未来を憂える少女の思いが大人に通じない。大人の一人として申し訳ない気がする。

この会議で決まったことの一つは《2050年までに二酸化炭素の排出量をゼロにする》こと。ゼロになっても元に戻るのに数十年かかるというのに。しかもそれに賛成したのは温室効果ガスをあまり出さない小さな国ばかりで、中国、アメリカなど大排出国は賛同していない。日本もなぜか積極的ではない。ということはこの先30年の間も温暖化は進み続け、その先もさらに横ばいが続くということか。その頃トゥンベリさんは、そしてポランの子どもたちも、みんな人生の折り返しの年齢だ。その間に地球上にどんな変化が起るかは誰にも分からない。環境問題は想像力や感受性の問題であり、人は何のために生きるのかという哲学の問題でもある。自分は年寄りだからもうどうでもいい、ではなく、子や孫の代になればなるほど深刻さを増す問題なのだ。来年も暑い夏になり大きな台風に襲われ、その翌年も40度が普通になり、多くの人が命を落とすのかもしれない。10年で変化したものが5年になり、さらに加速度を増して悪化が進むのかもしれない。そうなる前に今の大人たちがもう少し敏感になって具体的な行動を起こさないといけない段階に入ったのであり、グレタという少女の出現は何かの警告か啓示なのかもしれない。

さて、では自分には何ができるだろうか。個人的にできることとなると少ないものだ。あまり努力の要らないことはすでにある程度は実行している。だから、もっと別のこと、みんなが少しずつ何かを我慢したり削ったりすること、もっと社会全体でできること、日々の仕事、経済活動として成り立つようなことが考えられないだろうかと思う。プログラマーの場合なら、みんなが楽しく使える温暖化防止アプリを考える。科学者ならフロンやオゾンについて研究を重ねる。発明好きな人は、ドラエモンのタケコプターのような風力発電装置を作る。それを自転車のハンドルや車の屋根、帽子に付けて走って発電し、蓄電装置を車の屋根から取り外して部屋に持ち込めばそのままスマホなどの充電に仕えるようなものを開発する。政治家は、票にはならなくても、党派を超えて環境問題を最優先させた政策を実行に移す。地域の自治体は《わが町のCO2排出目標》やひたすら緑化率の向上を目指す・・・。とにかくすべての地球の住人が、四六時中、温暖化阻止のことを念頭に置くとか、無意識のうちに温室効果ガスを出さないことにつながる生活の仕組みを考え出すようにでもしなければ、転がり始めてしまった超重量級のはずみ車にブレーキをかけることは容易ではあるまい。悠長なことをしているヒマは本当はもう残っていないのかもしれない。地球にとって一番有害な生き物が人間であると地球が判断したら、自然界の摂理は人類を淘汰する方向に動き出すのかもしれない。それは最悪のシナリオだ。

格闘遊びから学ぶもの

ポランには時々、外部からの見学者が来る。年齢の高い訪問者にとっては、ポランの遊び方は懐かしいものであり、若い方々の目にはとても新鮮に映るようだ。どちらも高い評価をしてくれるのだが、40年も見続けている今のボクの見方は少し違う。昔と比べて遊び方が下手になったなと思うのだ。

どの遊びにも共通している最近の傾向は淡泊で飽きっぽいこと、工夫がないことだろうか。ある程度楽しさや面白さが分かるとそれで興味は萎えてしまう。ほんの入り口に過ぎない段階なのに早々と熱を失う。熟達、習熟することが少ない。15年ほど前までのベーゴマは、ボクが全力を出さないと勝てない5,6年生が一人二人はいた。今は、年老いたボクが一番弱いコマでも楽勝する。ビーダマでも大人を本気にさせるような2,3年生がいて、夏休み以降も十一月の声を聞く頃までバチバチと飛ばしあっていた。今はビーダマの楽しさに目覚めた1,2年生の一部がコチコチと続けている程度で、高学年の姿はあまりない。

今は簡単に手に入る楽しいことが他にいっぱいある時代だからしかたがない。子どもがあれこれ忙しい時代なのだからしかたがない、と頭では理解しているつもりでも、心がその現実をなかなか受け入れることができなかった。そして頭に心がやっと追いついた最近になって思うのは、このまましかたがないと思っていていいのだろうかということなのだ。

まず考え直そうと思っているのは格闘遊びだ。集団でする格闘遊びには学べるものがたくさんある。今は高学年になると素朴な闘争心よりも友達関係への配慮のようなものが優先されて、緊張感を欠く闘い方になり、ダラダラと時間ばかりが過ぎている。集団で相手を倒して勝利するためには団結力や作戦やリーダーシップが必要だ。《勝ちたい》という気持ちさえあれば自然に生まれるものだと思うのだが、それが乏しい今は、チームで戦っているのに、個人がバラバラに動いている。その結果、無謀な戦い方をしたり、仲間がやられているのに助けようとしない。学年や男女が混合のチームなのだから、お互いに助け合わなければ弱い子が強い子に勝てるはずがない。でも、個人ならできないこともみんなで戦えばできることがある。例えば、強い子には3人で組みつくとか、みんなで相手を押す方向を統一するために誰かが声を発してまとめる、など実はいろいろある。

格闘遊びから学べるものには、個人の身体能力の向上はもちろんだが、力を合わせること、仲間を助けること、それぞれの持ち味を生かし合うことなど、貴重なものがたくさんある。今や、日本中を探してもこんな遊び方をしている子どもたちは珍しく、希少価値がある。なのに今のまま惰性でやっているような遊び方ではもったいないではないか。今後はあれこれとうるさくコーチングの声を飛ばしていこうと思っている。

フォト点描

てんこ
ビー玉。「てんこ」という遊び方。ルールを巡って言い合うこともある。腹を立てたり我慢したり・・・。問題対処能力を養う上でとても大事なことを学んでいる。
誕生日の記念撮影
誕生日の記念撮影。おやつの時にパチリ。この後、クラッカーを鳴らし、歌を歌って祝う。
穴を掘る
男の子たちは穴を掘ることが好きだ。今どき、自由に穴を掘れる場所などなかなかない。もちろんどこでも掘っていいわけではないが、問題がなさそうな場所で始めたら大目に見る。スコップやノコギリなど道具が自由に使えるようにしておくと何かが始まる。道具と素材は工夫と試行錯誤には欠かせない。
ビワの木の上の基地
雨の日のビワの木の上の基地。土台はボクが作って、屋根などは自分たちで作った。上から見下ろす基地は気分がいい。
刺繍の時間 6年生の女の子たちの刺繍の時間。ちょんの手ほどきで針の使い方からおぼえる。部活などでポランで過ごす時間が少ない6年生。来たときの楽しみにと思って始めた。他の学年や男の子に広がっていくと面白いかも。