「何かに刺された」と一年生が言ってくる。見ると指先に赤い点がある。小さなハチかアブのようだ。クローバーか何かを触ったら運悪くミツバチか何かがいたのだろう。薬をつけてやった。しばらくすると別の一年生が「どうしてかわからんけど指がイタイ」と言ってきた。さっきの子と同じような場所に同じような赤い点がある。そんなことが数日の間に3、4回続いた。それも一年生の男の子ばかり。これは何かあると思い、痛くなったと思われる場所へ行ってみた。グランドの奥の竹藪の中。いつの間にか一年生たちがここに秘密基地を作っていた。「このへんで急に痛くなった」というあたりを探してみた。あったあった。枯れた竹に小さな穴があいている。直径2センチほどの太さの竹の、地上から7、80センチのところに、直径1㎝くらいの穴があいている。基地の入口にあって足元がやや不安定だ。一年生たちがつい手を伸ばしてつかみたくなる位置にある。竹をつかんだその指先がちょうど穴を塞ぐことになる。その瞬間に中にいたハチがチクリと刺したに違いない。これで一年生の男の子ばかりが、しかも同じような指先を刺されるという怪現象の理由が判明した。
その竹を根元から切り取り、穴があいている節を切り開いてみると中には黄色い卵のようなものがぎっしり詰まっており、黒と黄色の蜂が子供たちの目の前に飛び出した。後で調べてみると、それはタイワンタケクマバチという外来の蜂で、愛知、岐阜あたりで最近増えていることがわかった。枯れた細い竹を強い歯で食い破って穴をあけ、中に卵を産み付けるという。庭先に置いた竹ぼうきの柄に巣を作ることもよくあるらしい。
余談だが、その数日後、ボクはたまたま近場の温泉に行くことがあった。清流に面した露天風呂にひとりで浸かり、川音に耳を澄ませ、雨上がりでまだしずくが滴っている緑の中で優雅な気分になっていた。ふと、目の前の竹垣に目を移すと、その細い竹のあちこちに、あるではないか、あの小さな穴が。3つや4つではない。もっとある。まさにポランで一年生たちの指先をチクリとやったあの蜂の穴だ。そのできごとがなければ目をとめることもなかっただろう露天風呂の竹垣の小さな穴。とたんにベソをかいた一年生の顔がいくつか浮かんできた。そして、あれはタイワンタケクマバチって言うんだゼと誰に言うともなく、なぜかニンマリとしながらつぶやいてしまった。
大粒なヤマモモをもらった。直径は2センチほどある。子ども時代から食べていたものの倍ほどある。こんなに大きなヤマモモがあるとは知らなかった。その大きなヤマモモはよく熟していて酸味より甘みの方が強かった。口に入れたときの少しザラっとした触感と独特な風味はまさに昔と全く変わらないヤマモモそのものだった。中学校のそばにも一本、ヤマモモの木があり、学校を抜け出して食べに行ったことも思い出した。思えばあれは、こんな梅雨どきのことだったのだなあ。
戦後の、何もない時代(そういう実感はなかったが)の子どもたちは、野山や神社の森や庭先などで木の実や草の実をほんとうによく食べた。今頃の季節ならクワの実やビワ。そしてヤマモモ。夏の終わりから秋にはイチジク。そしてクリ、グミ、アケビ、ムク、シイの実と続く。冬にはフユイチゴ、マキノミがあった。ツバキのミツも吸った。春になると野イチゴが熟しツンパコ(ツバナの穂)をガムのようにして食べた。ニッケイの根を掘ってかじったりもした。ニッケイの木は他人の家の屋敷森にあったりするので忍び込んでは見つかり、叱られたりもしたが懲りることはなかった。食べられる実とそうでないものを、どうやって知ったのか記憶にはないが、きっと年上の子がやっているのを見たのだろう。ボクにとってヤマモモは子ども時代の記憶を芋づる式に呼び覚ましてくれる不思議な木の実である。
ポランの中を水が流れている。奥の山に降った雨が流れてくる。雨が降った後は勢いよく、雨が降らない日が10日も続くとチョロチョロとした流れになる。梅雨のこの時期は毎日、気持ちのいい水が流れている。
1,2年生たちはこの流れの周辺で本当によく遊ぶ。水をせき止めて小さな池が作ってあるので、カエルやオタマジャクシ、サワガニ、タイコーチ、ヤゴなどの生き物もいる。学校から帰って来ると真っ先にその池へ飛んで行く子も多い。時々、水場の周辺を片付けるのだが、竹の棒や木の板、タモ、スコップ、バケツ、フライパン、ヤカン、ヨーグルとのカップなど、いろいろなものが散乱している。あたりの草の上や土の上には子どもたちが動き回った跡がたくさんある。何度注意しても片付けることはできないし、水の中に物を投げ込む子は一向に減らない。車でお迎えのお母さんにしてみれば、靴も靴下も濡れ、ズボンまで濡らしている子は、やっかいなものかも知れない。でも、そんなことは大したことじゃあないと思ってがまんしてほしい。大人になれば直る、と。それより、水が流れているこんな場所で生き物を捕まえ、石を積んだり雨どいで回路を作ったりして水の流れを変え、仲間と水をかけ合って遊ぶことがどれほど豊かで贅沢なことか。ボクはそのことに意義を感じていたい。水の底にカエルが潜ったのを見つければ、そばにある竹の棒はすぐにカエルを追い出す道具になる。タイコーチが網にかかればヨーグルトのカップでも、おやつの空き袋でも何でも虫かごになる。バケツだって欲しくなる。でも、用がなくなればそれらはそのまま周辺に置き去りになる。根っこから引き抜いた草だって投げ込めば何となく楽しいものに見える。投げ込んだ板の上にアメンボが乗っているのを見つければその大発見を大声でみんなに知らせ回る。子どもにしか分からない楽しいことや発見が、この場所で毎日起こっているのだ。
ポランに出勤すると今日もまた水があふれている。誰かが流れをせき止めたまま帰ったのだ。こんなボロボロのベニヤ板一枚が子どもたちにとっては水門という道具になるのだ。そう思いながら引き抜くと、水は生き返ったように流れ出て行った。
水辺の話を書いたついでもう一つ。外の道路沿いにも子どもたちがよく遊ぶ水路がある。ここは流れが止まることはない。夏休み、この中にキャンピングテーブルを持ち込んで弁当を食べた子もいた。とにかく大事な水場である。ただ、ここには時々ヘビが上流から流れてくることがある。水路の両側が垂直になっているために、何かの拍子にこの水路に入り込んだヘビが、這い上がることができないまま下流へと流されてくるらしい。
山の下にあるこの付近には当然マムシがいる。水辺を好むマムシには注意が必要だ。だから池の付近の草刈りには神経を使っている。水辺で「ヘビだ!」という声が上がると、大急ぎで「手を出すな!」と叫びながら駆けつけることにしている。実際は無毒のヘビのことが多いのだがマムシのことも時々ある。以前に一度だけ、前の水路にマムシの子が数匹流れてきたことがあった。もちろん何事もなかったが、うっかり者が手を出さないとも限らない。
先日もその水路から「ヘビだ」と知らせの子が駆け込んできた。ベーゴマを教えていたボクはいつものように「待てよ!手を出すな!」と言いながらダッと駈け出した。大人があわてて駆け出すと、何ごとが起ったのかと、子供たちも、宿題をしている子までがドドッと一緒に駆け出す。水路の中には一mほどのヤマカガシが、壁をよじ登れないまま右往左往している。このヘビは奥歯に毒があるが、性格はおとなしく、よほどのことがない限りかみつくことはない。「こいつはダイジョウブだからそのままにしておこう。そのうち流れていく」。うろたえているヘビのあの独特な体のうねり方を、子どもたちと上からじっくり観察させてもらった。
4年後、成人年齢が18歳に引き下げられるという。誰が、何の必要性があって法律を変えようとしているのかよくわからない。選挙権がすでに引き下げられていることと、どこかで連動しているのかもしれない。 成人年齢と言われても「成人式」とか「未成年者お断り」という張り紙以外、ピンとこない。でも、実は、案外身近なところに20歳や18歳という年齢の区切りがある。例えば投票権はつい最近、18歳からということになった。車の免許は16歳で自動二輪、18歳で普通自動車の運転が可能になると決められている。競馬や競輪などのギャンブルについては20歳未満禁止である。もちろん酒、タバコも同じだ。結婚にも年齢制限がある。車のローンなどは未成年の場合、厳密にいえば親の同意がないと組むことができない。成人すれば国民年金に加入する義務も生じる。つまり、成人年齢が変わると、成人式だけではなく、他にもいろいろ変化があるということだ。
ただし、今度の改正も、もう少し詳しく調べてみると、酒・タバコは20歳のままにするとか、国民年金もまだまだ不確定だとか、年齢制限については事柄ごとに検討し、《成人》という枠で一律にくくることにはならないようだ。少し安心する。安心するということは心配があるということでもある。今の若者が昔より早く大人になっているのかといえば、そうとは言えない気がする。いつまでも自立、自活できない若者は増えているように思う。悪質な貸金融の業者に妙なローンを組まされたり、人生経験の少ない18歳や19歳が悪い連中にだまされることが増えそうな気もする。あるいは非正規労働者が増えているこの時代に国民年金など安定して払えるのだろうかという心配もある。
それなのに18歳から成人とするという。これには何か裏がありはしないか? ヘソの曲がった年寄りのボクはかんぐってしまう。選挙権の時だって、18歳や19歳の若者たちが強く要求したものではない。国民的議論があった記憶もない。政府が決めたことだ。民法の規定が古いからとか、世界的には18歳が成人だとか、それが改定の根拠だとするなら薄弱だ。経済活動を活発化させるのが目的なのか? 今、国民の意見とは別に国会(だけ)で問題にしているカジノ法もそうだが、ローンにしろ競馬やカジノなどの賭博行為にしろ、そこで若者が金を使うようになれば経済は活発になり税収は増える。それが狙いか? それとも法律を変えることに対する国民のアレルギーを少しずつなくして、やがて憲法も…? さらには徴兵制を導入した時の対象年齢を引き下げようという狙いがある…? 何せ年寄りは頭が固い。国民的な話題になると年寄りがうるさくて何も変えられない。社会経験が少なくて政治に無関心な若者に選挙権を与えた方が何かと扱いやすい? まさかとは思うが、政治家たちがそんなことをもくろんでいるとしたら問題だ。年寄りのかんぐりは果てしがない。
法律を作る(変える)ことで誰が得をし、だれの利益になるのか。経済活動を活発にして国が豊かになることは否定しないし、真面目な役人たちが地道に実現させようとしている法案もある。様々な利害を調節する働きを持つ法律だが、とにかく、国民ひとりひとりの幸せな暮しにつながるものであってほしい。大事なことは国民が「自分には関係ないも〜ん」になったり、自分の頭で考えることを面倒がったりしないようにすることだ。年寄りのかんぐりだって当たることがあるかもしれないのだから。