今の仕事に就いてかれこれ40年になる。それなのにいまだに心の中では毎日のように小さな葛藤を繰り返している。単に技術を習得し腕を上げる仕事ではないからだろうが、小さな迷いは時代と共に少しずつ変化しながらもずっと続くのだろう。
そんな話の一つ目。池を造り直した話は前号で書いた。その後も池の周りには子どもの姿が絶えることがない。誰かしら水を覗き込み、棒を突っ込んだりしている。先日も何か騒ぐ声が聞こえたので見るとペットボトルを投げ込んでいる。中に何か入っている。拾い上げてはまた投げ込む。「まだ生きとる」という声が聞こえてきた。中には小さなヘビが入っていた。
子供は川や海、池を見るととにかく石を投げ込む。それは男の子や時には父親たちが条件反射のようについやってしまう。狩猟本能がなせる行為なのかもしれない。新しい池にもすでにたくさんの石が沈んでいる。石だけではない。木切れや金属片、網の切れっ端もある。時々はダメだと注意をすることもあるが、毎年春になると新しい子がドっと入って来るポランでそれを徹底させるのはなかなかできることではない。何より、ここは子供が遊ぶために造った池であり、世間の公園のように鯉を泳がせたりハスやアヤメを植えたりして大人が楽しむための池とは違う。物を投げ込むことは、それがヘビの入ったペットボトルだろうが、遊びの内と考えて大目にみることにしている。しかし、ポランの池では黙認されても世間ではそうはいかない。であるならポランでも公衆道徳として指導した方がいいのかも・・・、でも、それじゃあ子どもたちはどこで自由な池遊びができるのか。せめてここだけでも許してやりたい・・・と思ウノダガ・・・。
二つ目はスケボーでのこと。東京オリンピックの種目に採用されたスケートボードだが、ポランには季節限定の特別コースがある。スキーやスノボーと同じこの手の滑走遊びは、好きな子は、毎日、上達することを喜びとしてチャレンジするが、全く興味を示さない子もいる。そして最近は後者の数が増えている。転倒する怖さがあるからだろう。ちょっと難しいことを避けたがる傾向も表れているようだ。好奇心の旺盛な《たくましい次世代》を育てたいと願ってコースを作るボクとしては、強制的にでも・・・という思いはある。しかしジレンマが頭をもたげる。『ポランは学校とは別の学び方をする場所だ。人間関係も違う方がいい。自由意思をなるべく尊重したいという考え方も基本にある。第一、骨折するリスクもある遊びなのだゼこれは。無理強いするのはちょっと・・・』『そりゃあ確かにそうだけど、学校では跳び箱やハードルや組体操を授業としてやっている。それに、食わず嫌いの子や恐怖心が強くて慎重なタイプの子が新しい可能性を広げるチャンスをみすみす逃すことになりはしないか・・・?』 そんな思いもあって今年は予定外の超入門コースを用意してある。学校から帰って来ると何を置いてもまず宿題と取り組む多くの子どもたちと、ボードを抱えてコースに向かう一握りの子の両方を見ながら今のボクが努めていることは、果敢に挑戦している子の姿を写真に収めて掲示すること、そして上達の目覚ましい子や、4年目にしてやっとコースに立った子を目ざとく見つけて褒めてやることくらいである
三つ目もスケボーでのこと。初心者コースで遊んでいた4、5人の一年生たちが逸脱した遊び方を始めた。コース上にスケボーをワイ、という程度にしか思わなかった。ところが中の一人がチラチラとボクの方に視線を向けることに気がついた。その目は、こんなことしても叱られないのかなあ、とボクの反応をうかがっている。おそらく、これまでは保育園でも学校でもこの種の遊び方は禁止されることが多く、とがめられそうな気がしたのだろう。そんな目で見られたことで逆にボクは考えてしまった。確かに乱暴な遊びに見える。安全最優先の昨今の風潮からすれば禁止されるのが普通かもしれない。ということはやはりこれは止めた方がいい遊び方なのだろうか?ボクの心を一瞬だがそんなジレンマのような思いがよぎった。でも、この遊び方でケガをしたことは一度もない。ダイジョーブだ。見ぬふりをして作業を続けた。
とっさのときに危険を避ける身のこなしは、子ども時代のこんな遊びから育つ。危なそうに見えることと本当に危ないことは違う。《転ばぬ先の杖》は大人や老人の話に留め、子どもたちには《転んでも立ち上がる回復力と、失敗から学ぶしぶとさ》を培ってほしい。ちょっと痛い目にあったらすぐにめげたり、「できない」とか「ムリムリムリ」を連発するばかりでなく、「やってみようかな」とか「楽しそうだな」と思って行動する子どもたちに育ってもらいたい。その方が未来に希望が持てる気がするではないか。
春にポランを卒業していったばかりの中1が、学校行事が中止になったとかで突然顔を見せてくれた。後輩たちも久しぶりの先輩と会えてうれしそうにじゃれついている。スケートボードで滑り降りてきた3年生のH君の目に、楽しげなその様子が映ったらしくて、たまたまそばにいたボクにポツリと言った。「ロク、オレも中学生になったらポランに来るで。だってポラン、ドっ楽しいもん。」
卒業生がこうして戻ってきてくれるのはもちろん嬉しいが、現役の子が言ってくれるこんな一言はもっと嬉しいものだ。
沖縄に『珊瑚舎スコーレ』という名の学校がある。旧い知り合いが16年前に沖縄に移住して始めたフリースクールである。特別非営利法人として文科省にも認可されている。小・中・高のコースの他に夜間中学もある。沖縄には、学ぶ機会を奪われ義務教育未修了の高齢者が数多くいる。夜間中学は主にそんな人を対象にしている。その学校から定期的に送られてくる通信を読んでいたら、詩人の谷川俊太郎さんがその学校を訪れたときの感想を書いた一文が紹介されていた。谷川さんらしい美しい表現があったので一部を拝借引用させてもらう。
『教科書から学べないことが
貝殻から学べる
風から学べる
近所のおじいさんから学べる。
文字から学べないことが
声から学べる
顔から学べる
音楽から学べる
人間から学べないことが
魚から学べる
花から学べる
そして学ぶ必要のないときは
ただ生きていることを穏やかに楽しむことができる』
*私は珊瑚舎スコーレでそんなことを学びました
ポランでも時間のたっぷりある夏休みなど、子どもたちが急かされることなく心の赴くままにゆったりと遊んでいる様子を見ていると、いろいろなことを発見し、いろいろなことを吸収し、いろいろなことを体験しているんだなあとしみじみ感じることがある。教科書や言葉ではとうてい教えることのできないことをいっぱい吸収しているんだと、見ていて感じることがある。見て聴いて感じて体で学んだことは、言葉で表現できないことが多いものだが、生きて行く上で貴重なものもそこにはとても多いように思う。
先日、一部の子たちと新城の公園まで自転車で往復した。自転車で走ることの爽快感と自分の体力でそれをやり遂げたという達成感を知ってほしかった。参加した子は、疲れただろうがその二つのことを実感してくれたのではないだろうか。
長年子供たちとサイクリングを続けていて思うことがある。自転車で遠乗りする場合には、ふだん近所を乗り回している体力や技術とは違う《自転車体力》とでもいうべき特別な体力が要るようなのだ。同じ姿勢を維持しつつ、主に下半身の筋力を使い続けるわけで、普通に歩いたり走ったりする体力とはどうも別のようで、今回のメンバーの中にも普段の行動からみると意外なほどバテている子がチラホラあった。
我が子の体力がどれくらいあるのかないのか、真剣に考えてみてもらいたい。朝、普通に起きて、歩いて学校へ行き、体育の授業も含め普通に過ごし、授業後の部活もこなしているから問題ないということではなさそうだ。現代人は生活のあらゆる場面で体を動かす機会が減っている。10年前、15年前と比べても、車での移動が増え、パソコンやスマホの前で過ごす時間は増え、通販での買い物が増えて出歩くことや重い物を持つことが減っている。自転車に乗らない子どもが増えていることからわかるように、遊びを含めて子どもたちもあまり体を動かさないようになっていることは間違いない。ただそのことが顕著な健康上の問題を引き起こしているわけではないので、こうした特別の機会でもないと気にも留められない。これでいいのだろうかと心配はするが、さりとてポランでは今までと同じことを続ける以外に打つ手は見つからない。
人工知能AIの進歩が目覚ましい。CPにビッグデータを与えると、CPが自分で解析し、求められた問いに最適な答えを返す。そんな機能を備えたコンピュータがAIだ。将棋の世界ではポナンザと命名されたAI搭載のソフトが、プロ棋士たちも到達できないレベルに達し、すでに開発を終了しているという。
将棋には定石というものがある。普通なら常識を外れた手は不利になる。しかしポナンザは常識はずれの手を指す。それでも勝つ。それは定石やこれまで人間の棋士たちが発見してきた戦法が、有利な指し方のほんの一部でしかなかったことを示している。ポナンザはそんな狭い世界の常識にとらわれず最終的な《詰み》につながる道筋を広く探す。佐藤天彦名人が読んでいる八手先の王手を、相手が「こんな手でいいの?」と拍子抜けするような手で打ち砕いてしまう。あの羽生善治氏は「私たちがシャベルで掘っているものをポナンザはブルドーザで掘る」と表現する。超一流の棋士たちが完敗を認め、大海を知らない《井の中の蛙》だったと脱帽してしまうのである。驚嘆する他はない。
これからAIは車の自動運転などいろいろな分野に進出するだろう。ただし、AIの導入によって人間が不幸になったのでは本末転倒だ。結果重視の効率最優先の分野はそれが得意なAIに任せ、人間は心をすり減らす必要のない働き方を追求するのがいい。人間ならではのムダや第六感やヒラメキを楽しむのもいい。芸術や文学、《たで食う虫》の世界も案外いいのではないか。