石巻山初のぼり
1月4日、石巻山初のぼり。石巻神社にお賽銭を上げてお参り。そのあと山頂を目指す。その後、二人の6年生と二人の大人でさらに奥の岩場を踏破。山登りで得られるのは眺望と自分の足で極めたという達成感だけ。でもその体験が本物の自己肯定感を育てる。
竹の箸
竹の箸を作る。隣との間が近いように見えるがナイフの使い方を心得ていれば危ないことはない。本文参照。

バーチャルとリアル

ダルマストーブの周りで竹削りが始まった。ナイフを自分の思い通りに動かすことはとてもむずかしい。一朝一夕にできることではない。ナイフを使うというハードルは年々、高くなっている。生まれてからこれまでに備わった自分の指先の巧みさ以上のことはできない。まぐれや偶然で上手にできることはない。昔の子供にとっては日常茶飯のことでやるしかなかった手作りや手仕事だが、今時の子供にはやらなくてもよいことをわざわざやることになる。初めて体験したナイフの作業を《めんどくさい》と感じる子もいれば《むずかしいけどおもしろい》と感じる子もいる。それは上達の違いにも表れる。昔ならその違いは単に器用だ不器用だ、くらいのことで終わったが、どうも昨今はそれだけではなく、もう少し根深い問題にもつながるような気がボクにはする。

世の中は今やデジタル(コンピュータ)が作り出すバーチャル(仮想・疑似・虚像)の世界に満ちている。朝、一番スマホをチェックし、スマホを片手に職場に向かい、パソコンとにらめっこで仕事をし、スマホを眺めながら帰宅し、ネットで調べものをし、ゲームやユーチューブを楽しむ。そんな暮らし方をしている現代人は多い。子供たちもすぐにそんな暮らし方になるのだろう。現実(リアル)の世界は手で触れ、肌で感じ、ニオイを感じられるなどの実体があるが、バーチャルな世界は実感や実体を伴わない。例えばお金であるが、これまでお金というものは薄い紙や金属で、指をなめなめペラペラと数え、チャリチャリと音をさせながら金額を数えて相手に支払うものだ。「アッ、10円多いですよ」とか「すみませんが一万円札でおつりをください」などと店員とやり取りをするのが実体のあるお金である。四角いプラスティックのカードを何かに挿入したり、スマホをかざしたりして支払いを済ますのがバーチャルなやり方で、何がどうなっているのか実体は見えない。カギを開ける場合なら、鍵穴に金属を差し込む感触を感じ、ガチャリと回す動作やドアノブを握る回す引くという一連の動作を伴うのがリアルであり、バーチャルの世界でいうログインは所定の場所にパスワードなどの文字や数字を打ち込むと画面が進む(変化する)ことであり、必要な動作は指先のタッチやクリック程度である。何かが確かに開いたという実感はほとんどない。そもそも求めるものを利用できさえすれば、実感や実体などどうでもいいのだ。SNSを通じてどれだけたくさんの人とつながろうが遠い知り合いと言えるほどの実体すらもない関係だろう。

問題は、そういう実体の見えない行為、確かな実感のもてないことを続けていると人の心が微妙に異常をきたすことだ。物忘れ、判断力の低下、不眠、人格の変化、などがあればすでにデジタル認知障害という病名がつく状態だ。そこまででなくとも、何となくイライラ、気分がスッキリしない、充実感が持てない、何となく空しい、感動することがないなどの気分を抱えている人が増えているらしい。ボクのような古い世代はネットの操作で、確信が持てないままOKをクリックすることに体が拒否反応を起こすようで、モヤモヤ感が消えない。最近、キャンプの人気が高くなり、アナログレコードを聴く若者が増え、田舎暮らしをする人が増えている話を耳にする。おそらくそれはバーチャル生活の反動であり、本能的にリアルな体験を補うことで心身のバランスをとっているのではないかと思う。回転するレコード盤の溝の上を針が走りスピーカーが振動して音が出ることと、雲の上からダウンロードして回転も振動も見えないイヤフォンから音楽を聴くのとは違う。焚き火や炭火で煙やニオイを感じながら肉や野菜を焼く行為には、おいしさ以上の意味があるのだと思う。スマホやパソコンは結局、情報を選んでやり取りする操作であり、物を作り出すわけではない。一方、料理や手芸や木工は、自分の嗅覚や味覚、力の加減など身体感覚を駆使して物を作り出す行為である。人間にとって物を作り出す行為には喜びが伴っていると思う。

自転車に乗れない(乗らない)子供が増え、歩くことを面倒だと感じる子が増え、ひも靴が結べない子が増えた背景には、車社会や便利社会の広がりがある。ナイフ作業を、手が痛いから、うまくできないから嫌だ、と感じる子の背景にも同じ原因はある。でも、ナイフの刃先を見つめて微妙な削り加減に集中している子の姿を見ていると、実用に役立つ物を自分の手で作り出す喜びを生まれて初めて体験している、と感じる。そしてリアルな世界の奥深さを初めて体感しているのではないかという気もしてくる。そしてそれは将来、心身のバランスを崩さないために必要な身体感覚を身につける第一歩でもあるような気がするのだ。一本目の箸で苦戦してめげてしまう子は、その第一歩を踏み出せないことになる。将来、否応なしに増えていくバーチャルな世界のことを思うと、こんな初歩的なモノづくりの入り口でめげることのないよう、褒めて、励まして、やる気を育ててやらなければいけないと思う。他のことなら、勝手にめげてろ、自分で解決しろ、自分で工夫しろ、大人を誘うより仲間と遊べ、と突き放して見ていることが多いのだが・・・。