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火星

名前で遊ぶ

雨の日。自分の名前を使って遊ぶことにした。まず自分の名前をひらがなで5センチ四方の紙に一文字ずつ書いてもらう。6文字の子は6枚の紙、7文字の子は7枚の紙片を自分の前に並べる。その中から二文字か三文字を取り出して何か意味のある言葉を作る。他の文字の中からさらに意味のあるものを作って、それを組み合わせて全体で何となく意味をなすような言い回しを考える。何となくイメージが浮かべばそれでよし。意味が無くてもゴロがおもしろければそれもよし。アクロスティックという文字遊びだ。低学年の子にはちょっとむずかしいところもあるので大人が子供たちの間を巡回しながら協力する。そうやってできたものの中からいくつか紹介する。(漢字とコメントはボクが補ってみた。《 》の中はその子の名前)

波の中サーファーのことかな《神野菜奈》
タコが吸うかや蛸は吸い付きますよ《高安巧雅》
人の尻に…尻に何をしたっちゅうの?《西野りひと》
のえママ来たのえちゃんのお母さんに用事でも?《前野たまき》
お父もかゆいゼ(セ)二人で蚊にでも刺されたのかな《岡本ゆうせい》
まぎ(マジ)大嘘嘘がバレても居直る大人、多いよね《大木聡真》
お父 赤しお酒でも飲んだ?《加藤あおし》
蟻の愚痴さ働きアリもたまにはこぼしたくなるサ《野口ありさ》
今 岩 ミミズ岩をよじ登るミミズ?《今泉美和》
龍の仕掛けはイスダイダラボチの龍にはイスが!《石川龍之介》
荒脇 歩軽「あらわきふかる」。何となく人名風《古川あきら》
鹿とウノあのひづめでカード持てるの?《加藤しの》

骨折について考える

先日、ポランで同じ日に二人が骨折した。二人を車に乗せて整形外科へ走ることになった。その日は、骨折について考えさせられることがいくつか重なった。10分ほどの間に二人の骨折が相次いだこと。その二人とも運動能力が高い子で、骨折とはあまり縁がなさそうなタイプだったこと。そのうち一人の子は転倒の際、上手に回転したように見え、骨折はないだろうというボクの予測は外れた。もう一人の方は、実は過去にも数回の骨折を繰り返していたことが(過去の骨折箇所を看護士に伝える彼の様子はどこか自慢げに見えて可笑しかった。)判明した。そして活発に運動する子に骨折が増えているという話を整形外科の待合室で知ったこと。さらにその数日前にギプスが取れたばかりの子がポランにいたこと。二人の治療に付き添いながらそんなことがあれこれ頭を巡り、最近の骨折事情について考えさせられた。

今、骨折する子は実際に増えているのか。調べてみると四十年ほど前と比べて2〜3倍に増えているという数字があった。原因はいろいろあるようだ。まず①遊び方や生活が変わったこと。絶対的な遊びの時間が減り、力を出す遊び方(木登り、穴掘り、格闘遊びなど)をしなくなった。生活の中で重たい物を持ち上げたり、雑巾を絞ったりしなくなった。そもそも歩くことが減った。赤ちゃんがあまりハイハイをしなくなったことも関係がありそうだ。②食事が変わったこと。レトルト食品、炭酸飲料、インスタント麺、加工食品全般に含まれるリン酸塩という添加物は体内のカルシウムを溶かす。体内のカルシウムが不足すると人間の体は自分の骨の中のカルシウム分を溶かして使う。すると骨量が減る。牛乳などあまり飲まなかった昔の子どもの骨が丈夫だったのは、インスタント食品や炭酸飲料を摂取しなかったからだろうか。糖分の摂取量も増え、プチ肥満の子も多い。体重と骨量のバランスがとれていないことも考えられる。④日光を浴びる時間の減少。室内でゲームをする時間が増えたり、紫外線を避ける考え方が子どもにも浸透し、骨の成長に欠かせないビタミンDが不足気味になっている。こう見てくると骨が弱くなっている原因は現代人全体に当てはまるようで、ことは子どもに限ったことではないようだ。

そこでいろいろな骨折ケースを考えてみると、60代70代が若かったころのイメージのまま登山やスキーなどをやった結果の骨折。学校での跳び箱や組体操での骨折。野球、バスケ、サッカーなど激しい身体接触のある運動。そして昔のままのルールとやり方で遊んでいるポラン。こうしてみると共通の原因らしきことがある。それは《昔のままのやり方》である。年寄りの骨折はまさしく今の自分の骨の強度を考慮していない。学校の体育は昔とあまり変わらない種目において骨折が多発。バスケ、サッカーなどは基本的なルール、場所、道具の固さは昔と同じだ。ポランの格闘遊びもやり方は30年前と変わらない。要するに、弱くなっている現代人の骨に、たまたま昔と同じ強さの力が加わる可能性のある運動をした場合に、思わぬ身のこなしをした瞬間、現代人には耐えられない強い力が加わってポキッといく。 とすれば解決策は、現代人の生活や食べ物を変えて骨を強くするか、それができなければルールや道具を今の時代に合った無理のないものに変えるか、ということになる。ウーム。

研究者の警告に耳を貸そう

書店でブラブラしていたら『子どもがネットに壊される』というタイトルの本が目に飛び込んできた。本当に飛び込んで来たという感じだった。迷わず買ってしまった。

研究者や科学者は普通、因果関係が立証されたり科学的根拠に裏打ちできることでなければ世間に発表しない。それが科学的態度だ。しかしイギリスの女性サイバー心理学者メアリー・エイケンは研究者仲間から「そんな本を出版すると研究者としてのキャリアが台無しになる」と忠告されながらも「今、日々成長している子どもたちがいる以上、20年後まで座視しているわけにはいかない」と、これまでの研究データを基にこの本を著した。研究を通じて彼女は、インターネットやゲーム、SNSなどが子どもや若者に悪影響を及ぼしていることを確信する。多くの大人や子どもがスマホやモバイル機器を使って便利で面白い生活をしている。しかし、その生活が子どもの心を壊すかもしれないとエイケン氏は危惧する。使い方や与え方を考える参考になればと思い、本の内容を要約して紹介してみたい。

懸念される問題点は子どもの成長過程の各段階にある。赤ちゃんの場合は、授乳しながらスマホをいじる母親にある。母と子が見つめ合うあの至福の時間にアイコンタクトがなくなる。他にもハグやキス、おしめ交換や沐浴時のスキンシップも減少している。乳児は肌を介した継続的接触によって心身ともに健全に育つ。安定的な愛着が育つことで自分に自信を持ち、他者との交流に踏み出して行ける。そうして身につけた愛着のスタイルは、将来の友人、恋人、結婚相手との関係にまで影響する。つまりは人生を終える時まで影響は続くことになる。また乳幼児の脳は身近な人間やペットやオモチャなどの見慣れた現実刺激を少しずつ取り入れながらゆっくり育つ。ビデオなどの早過ぎる画面展開は過度の刺激となり脆弱な赤ちゃんの脳には悪影響となる。あるいは外遊びをする年齢になると外界を探索して自然から刺激を受けるようになる。砂遊びや水遊びや生き物との遊びは、後々数学や科学や芸術で必要となる感覚運動機能を育てるために必要な要素をたくさん含む。ビデオやスマホで遊んでいる様子を思い浮かべれば自然の中での遊びと違うことは容易に想像できる。そもそも2歳までは画面上の物を本当には理解できない。理解できないもので知識や能力を高めることはできない。

4、5歳になると自分の意志が育つ。オンになった画面の引力はとても強くどうしてもそちらに関心が向く。自分の意志で興味あるものに向かう時間が奪われ、本物の世界を探索したり自分の主体的な意志を育てる時間が奪われる。またこの年齢になると親(大人)の思い込みが問題となる。「子どもが退屈しているのはかわいそう」という思いこみがあると、ひとりぽっちでいる子についビデオやスマホを与えてしまう。退屈やひとりぽっちを体験することも成長に不可欠だし、本来子どもは退屈などしていない。どんな些細なものでも遊びにできるし、雨を眺めているだけでも頭の中は面白いことを考えているもの。「退屈だよー」と訴えてくるとすれば、それまでの育ち方がすでに受け身的だということ。この年齢は親が教育アプリを検討する段階でもある。科学的根拠が少しでもあると親はコロリと洗脳される。拡張機能やゲーム性が付加されていると、中身より機能を使うことへの興味が強くなり、画面に集中しているように見えて実はただ刺激を受けているだけで学習になっていないことも多い。最近のインタラクティブ(双方向)なアプリは、自分がキーを打つことで進むので教育効果が高そうだが、そこには相手とのアイコンタクトも本物の声もなく、こちらの笑顔や困惑には反応しない。結局は仕組まれたプログラムの上を進まされているだけで双方向といえどもしょせん生きた人間のようにはいかない。幼い子の言語能力や知覚能力を伸ばす最適なやり方は、生の他者と交流することなのだ。テレビが一日中オンになっている環境で育った子は言葉や音楽に対する注意力が薄くなり、自分に投げかけられた言葉も聞き流すようになる。エイケン氏の指摘はどれも思い当たることがある。

7、8歳はADHD(注意欠如多動性障害)やアスペルガーなどの発達障害が診断される年齢である。それまでは、ちょっと他の子と違うのはその子の個性だと思えたものが、専門家によってそうではないと診断されることになる。ADHDは大流行の傾向にある。サイバー(コンピュータやネット)効果が原因であることを真剣に疑うべきだと筆者は言う。この年齢になると学校という空間ゆえの問題も生じる。学校は昔と大きくは変わらない。集団行動のために厳しい統制があり、自分以外の何かを中心に回っている刺激の少ない場所である。一方、放課後や休日は、サイバーな、刺激的で自分中心で、満足感が即座に手に入る過ごし方をする。その差はどんどん広がり、学校をつまらないと感じるようになり、注意力が落ち、それを教師が問題に感じるようになっている。もちろん児童の側にも、注意力や運動能力や社会性の発達に遅れが目立ち、ゲームをやり過ぎて疲労感をもったまま《デジタル二日酔い》の状態で登校する子も少なくないという。 エイケン氏は、インターネットは大人が使うものであり、子どもを意識してデザインされることはなかった、という。さらに、プールに子ども用の水深の浅い区域があるように、インターネットにもそういう配慮があるべきだ、とも主張する。 さて、ボクにはサイバーという言葉自体がよく分からない。分からないが、その分野の専門家が、結論が出てからでは遅いと感じて鳴らす警鐘に耳を傾けたいと直感する。その警鐘を伝えることで現役の親世代にも何かを考えてほしいと思う。心配ごとの多いサイバー時代を生きていく子どもたちに、私たち先輩の大人はどんな世界を残したいと思うのか。家族の絆、一体感、愛着、楽しい思い出、努力の意味、勇気や正義?そういう地味だけど究極的に大切なものをどうやって伝えるのか。タブレットに任せるのか、それとも人間が直接、行動で伝えるのか。親が忙しさに流され雑用に追われ、何となく黙認し、手をこまぬいている間にも、子どもたちはインターネットやSNSなどの大人用のプールに浮かびながら日々、成長という変化をしているのだ。

看板の挿絵のこと

看板の挿絵

三口池の下に、地元住民と市が協働で造った公園だがある。入口に公園の案内をするための看板が立った。

看板に描かれている生き物の挿絵は、一年前の夏にポランの子が描いたものだ。1,2年生に描いてもらった中からいくつかを選んで送ったものを、豊橋技科大の学生が仕上げてくれた。公園に行くことがあったら見てほしい。