できあがり!

箸を削ることについて

昔、ボクが小学生の頃、子供たちの筆箱にはエンピツと一緒に、それを削るための専用の小刀が入っていた。机に固定してクルクル回すエンピツ削り器というものがまだ普及していなかった時代の子供たちは授業の合間に、時には授業中にでも、そのナイフを取り出して机の上でサリサリとエンピツを削った。芯を削ったときに出る黒い粉が指に付着し、その指で鼻の下をこすったりして、間抜け顔になるようなこともあった。

小刀でエンピツを削ることは生活に根付いたことであり、3、4年生ともなれば、上手か下手かの差はあるにせよ、誰もが当然のこととしてやっていた。しかし、後年、子供たちにナイフの使い方を教える立場になってみて、それがかなり繊細な指使いを必要としていることがわかった。ナイフを握る方の手は刃の角度を調節しているわけだが、エンピツを握るもう片方の手はとても複雑な動き方をする。例えば、右手で握ったナイフの背に、エンピツを握った左手の親指の先を押し付けながら他の4本の指がエンピツを引いたりもどしたりを繰り返す。しかもその4本の指はエンピツを少しずつ握り変えながら互いに連動して横回転もさせている。そんな動きを9歳10歳の子が自然に、無意識にやっているのである。こんなことは人類に近はずの他のサル類には無理だろう。動物園で鼻の穴に指を突っ込んでいるチンパンジーのあの不自由そうな指づかいを見れば、とてもできるとは思えない。

他のサル類に別れを告げて樹上生活から地上での二足歩行の生活を始めた人類の祖先は、手が自由に使えるようになり、さらにピンと伸びる指と器用に動く親指を手に入れ、道具を作って使いこなすようになることで、脳が大きく発達することになった。そして数百万年を経て、その脳の進化が現代のコンピュータ文明にもつながっているわけである。文明の発達は人類の手の働きと道具を使いこなしてきたことに起源があるわけである。

今年の竹の箸づくりはまず《人間は□なサルである》と板書し、この空欄にピッタリ合う言葉を考えてもらうことから始めた。低学年の子たちのデタラメな答えを楽しんだ後にボクが正解として伝えた言葉は道具を使うとか服を着たである。残念ながらポランの子どもたちが作る箸の数はここ十年、どんどん減っている。身近な実用品を自分の手で作りだす喜びを知らないで育っている子供たちに、せめて道具を使うことの大切さを知ってほしいと思う。子供には《意義》なんかよりも喜びや楽しさを伝える方がいいことは百も承知だが、そのためには手に取ってやってみてもらわなければそもそも何も始まらない。竹の固いところを取り除いておいたり、丁寧にていねいに教えたり、ノルマを課したり・・・。アメとムチを使い分けながらやってきたのだが、今やそのムチはギャクタイと同義語になってご法度だし、アメも並大抵のアメではゴホウビとして機能しなくなっている。

ナイフが上手に使えなくてもどうってことはない。箸なんか削れなくても、指先一本で3Dプリンターから何でも作り出せる時代だ。そのとおりかもしれない。でも、何かが違うように思う。心の深いところのどこかが違うと感じる。人類の体には狩猟生活をしていた時代の遺伝子が体の仕組みとして残っているという。サバンナを走り回っていた人類の体は今でも、イスに座ったままの生活ではなく、適度な運動をすることで健康が保たれるようにできているらしい。器用な指を持つことから始まった人類の進化が、二十一世紀に今度は不器用な指になることから逆戻りの退化の歴史が始まるなんてことにならなければいいのだが・・・。それよりもっと心配すべきは十万年後の地球のことかも。

福笑い
正月遊びの福笑い。ここらへんかな?
年末のもちつき
年末のもちつき

年末のもちつき。今年は二臼を、一つは大人が手早くつき、もう一つは子どもがゆっくりついた。冷えたが何とかモチになった。おいしく食べた残りは丸めてモチ帰った。

スカイロケット
スカイロケット

スカイロケットを飛ばす。まずは六年生たちが作る。打ち上げはゴム動力。これが6年生たちの予想を上回る高さにまであがったようで、珍しく大喜び。この手の「飛ばしもの」工作はよく飛ぶことが大事。青い空に向かってスパーンと打ち上げると黄色い羽根がクルクル回りながら落ちてくる。単純明快な気持ちよさがある。何でも喜んでくれた昔の子どもたちの姿がダブって見えた。