くりくり坊や

ばえる?遊び方

ここ数年、短時間に大量の雨が降ることが多くなり、ポランの隅を流れる小さな水路もあふれそうになることが増えた。でも、被害が出ない限り、そこは小さな池として楽しい遊び場となる。

かつて田植えの時に苗などを載せて田んぼの中を引く田舟(たぶね)というものがあった。今はプラスティック製のトロ箱という四角い箱がそれに似ている。大雨の後、あふれそうになっている水路にそれを浮かべると楽しい舟遊びができる。ただし、この舟、バランスをとるのがむずかしい。正確に真ん中に座らないと揺れて水が入り簡単に沈没する。沈没のスリルも含めて楽しさはバツグンである。水場だからみんなに体験してほしいのだが、体重の軽い子に限定しなければならないし、尻込みする子も多い。2度目、3度目の子にはオールとして板切れや竹竿を持って乗り込ませる。ボート遊びなどしたことのない今の子たちは同じ場所をクルクルと回っているばかりで思い通り進めない。板や竹竿をどのように使えばいいのか分かってくると何度も乗りたがる。

虫や植物、気象や天体など、自然体験の豊かな子ほど理科が好きになるものだが、このボート遊びも《浮力》や《作用・反作用》などの理解につながる原体験になるといつも思う。

さて、普段からよく遊ぶこの水場だが、雨の後は流れる水の量が増えて楽しさが倍加する。ある日のこと、ダム遊びをもっと楽しくすべく雨どいや塩ビパイプを投げ入れてやっているボクのそばに、その様子を見にきた低学年の子が言った。「これをスマホで撮ってネットにあげればいいじゃん」。その瞬間、ボクはおもわず「エー?いいじゃん、じゃなくて、あんたは水に入って遊ぶ側だろう。ホラホラ、入って入って・・・」と言ったものの、ちょっと複雑な気がした

別の日、夕焼けがきれいだった。部屋の中で宿題をしている子たちに声を掛けた。何人かの子が出てきて「ワーほんとだ」と眺めていたが、そのうちの一人がタブレットを持ち出して写真を撮り始めた。えー?そう来るかと、ここでもボクは??だった。

楽しそうに子供が遊ぶ場面やきれいな夕焼けは《映える(ばえる)》ものらしい。ラインもインスタもティックトックもやらないボクも楽しそうだとか、きれいだ、珍しいと感じたものを写真に撮って誰かと共有したい気持ちはよく分かる。ただ、楽しいことに夢中になっている姿を撮られる側にいるはずの子供までが、傍観者的なバエルという発想を持っていることを知ったことは正直なところ残念である。夕焼けは、微妙な色の変化を自分の目を凝らして見てほしい。そもそも夕焼けを見える通りにカメラで撮ることはほぼできないと思った方がいい。実際、その時も、「写真の色が変」ということになって関心がそちらに移ってしまい、その間にも空の色は刻々と変わっていった。いつ、どこで、誰と眺めた夕焼けが、どのように、きれいだったか、という記憶はデジタル機器のハードディスクに残すのではなく心の中にこそ残してほしい。たかが夕焼けでも、大人と子供では体験の質や意味や価値が大きく違う。

さて、ボクは長い年月を子供たちと過ごしてきた。当然、子供たちの変化を観察する結果にもなった。よく思うのだが、子供の本質は変わらないが行動や発言は変わったと。総じて、不器用になり、用心深くなり、複雑な感情を身につけ、屈託を持つようになった。とても忙しい生活を送るようになったとも思う。それは親が望んだ結果であり、大人社会の反映でもある。ボクとしては歓迎したくない変化には抵抗してきたつもりだが、今はそれも受け容れつつ、できることは続けようというスタンスである。

デジタルな空間はVRやメタバースなど、これからもどんどん進化するのだろう。コンピュータが生活の隅々にまで浸透し、誰もがデジタル機器を使いこなす時代は目の前にある。旧い世代の人間としては抵抗感?というより心配なことがある。それは、コンピュータが作り出す世界が果たして人間の幸福につながるのだろうかということである。今でもすでに体調を乱し心を壊す若者が増えている。情報という刺激の多さに疲れ果て、心を病み、脳の異常まで起こす若者が増えていることを見聞きする。ボクは人の幸せは人のつながりの内にしかないと思っている。コンピュータが作る社会は《いつでもどこでもひとりでも》を具現化した、つまりは誰とも口をきかなくても生きていける世界に思われる。ボクにはその方向にはどうしても幸せが見えてこないのだ。

心のやわらかな子供時代、せめてその10年ほどを、仲間と体を動かし、心も動かし、泣いたり笑ったり悔しがったりして育ってほしい。そのためにデジタル機器の介在がマイナスなら、使い方を制限することがあってもいい。本当に楽しいことはCPゲームやユーチューブの中にあるのではなくて、本物の自然、生身の人間との共感の中にあることを実感する機会を優先してほしい。