2019年末劇
劇の本番を終えた直後、年賀状用の写真を撮る。何人かの子が枠の外に消えてしまって映っていない。

正月だからでもないが

長く生きていると当然のことながら何十回も新年の始まりを迎える。正月だからといって子どもたちのように新鮮な気持ちになれないのが正直なところだ。それでも、正月の朝の冷気の中で山から差し始めた陽光を見つめているとなぜか特別なもののように感じられる。それが自分でも不思議である。そこで正月に考えていたことをあらためて書いてみることにする。

まず、ペシャワールの会の中村哲氏が射殺されたこと。アフガニスタンで植林し井戸を掘り運河を建設して緑の大地をよみがえらせる偉業を続けていた。なぜあんなに大切な人を襲ったのか。氏が亡くなったことは悔しくてならない。犯人たちの浅はかな行為を腹立たしく感じる。一体誰の利益になるというのか。生前、中村氏が一番案じていたのは気候変動だ。すさまじい温暖化である。命の水をもたらすクナール川の源は、周囲の7000m級の山々からの雪解け水である。その山々に雪が降らなくなっているのだ。せっかくの運河が干上がってしまう。それを何より心配していた。水が貴重な国は貧しい国であることが多い。先進国の人間がエアコンをガンガン使って暑い夏を乗り切ろうとしている間に、乾燥地帯の貧しい国では命が脅かされようとしている。中村哲さんは体を張った仕事を通して環境危機への警鐘を鳴らしていたわけで、日本や世界にとって稀有で貴重な存在だったのだとあらためて思う。 ペシャワールの会の中村哲氏 元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん

その中村氏が尊敬していた元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんが中村氏より少し前に亡くなった。緒方さんも気候変動に心を痛めていた。温暖化の加速は世界に大災害や病気のまんえんをもたらし、貧困や紛争までも誘発していると考え、国際的な見地から地球環境を案じていた。「巨星墜つ」とはこういう人たちにこそふさわしい言葉だと感じる。

もう一つは、大学生が単位をもらえないからといって担当教官を刃物で刺したという事件。授業の単位というのは自分の力で得るものであって、刃物で奪い取るものではない。そんな当たり前の考え方ができない二十二歳がいることにあらためて驚いてしまう。世の中には自分の思い通りにならないことや思い通りにしてはいけないことがある。その見境もつかないとすれば、欲しい物を前にしてダダをこねてでも手に入れようとする幼児と同じだ。

幼児化は若者ばかりではないようだ。世界の政治家たちの間にも幼児化傾向は進んでいるようだ。何でも自国ファースト、自分の権力維持ばかり考えているのは幼児化である。専門家によれば大人が幼児化するのは、解決できない面倒な問題に直面したときだという。辛抱強く問題解決する意欲を失くし、投げ出したくなったり、自分が楽なやり方をするようになる。「もうゴチャゴチャ言わないでくれ。ボクちゃん、もうイヤだ。好きにさせてヨ」という精神状態が幼児化だという。現代の世相に照らしてみると、ネットなどの情報は多様過ぎてどれが正しいのか分からない、いろいろな価値観が複雑に入り交じっているなど、あっちもこっちも簡単に解決できない問題だらけ、○△ハラスメントも厳しさを増してやりづらい・・・。そういう中で生きている現代人は、日々の仕事の中で、大学生活の中で、交通渋滞の中で、国際政治の中で、イライラを募らせ幼児的発想に陥り、殺傷沙汰やあおり運転や武力紛争を繰り返すようになるということか。こんなことを書いているだけで気が滅入って来る。もうやめよう。

ゆっくりとあせらず、周囲の情報に惑わされない暮らし方をすることが肝心かな。そうすれば問題が解決できなくても幼児化することなく、粘り強くゆとりのある心でいられるということだろう。仕事を放り出したくなりそうなときは気分転換できる環境に身を置くのがいい。子どもたちもあまり大人的な時間を過ごしていると、投げ出したいと言えないだけに、返って心の奥に抱えきれないことをためてしまうかもしれない、などとふと思う。

年末劇の話

2019年末劇 ポランの劇はいつも単純で素朴な昔話を下敷きにしている。今回の「ぶんぶく茶がま」もストーリーはご存じのとおり、命を救ってもらったタヌキが恩返しをするというだけのことである。でも、すでに脚本にしてある過去の「ぶんぶく」を読み返すと、当然、多人数の子が登場できるようにストーリーを膨らませてある。10年前に流行したギャグなどが取り込んであったりして、単純どころかなかなかに楽しい読み物になっている。加えて、読んでいるボクの頭の中には現役の子たちの顔が浮かんで来て、この役はあの子がぴったりだ、これはあの子たちがやればよさそうだ、など、次々にイメージができあがってゆく。あとは少し手直しをすればいいだろうなどと見通しも立つ。今年の劇でナレーター役の落語家に喋らせたようにボクももう「歳が歳ですから・・・」ゼロから脚色して作り上げるよりはるかに楽ちんなのである。 2019年末劇

さてポランの年末劇はお客さんに見せるためというより本格的ごっこ遊びとして始まった。だから練習も楽しくできることを大切にしている。(子どもたちにとって最高に嫌な時間があるとすればそれはたぶん本番が近づいた頃、出番を待つ練習を兼ねて楽屋の奥の狭い空間に閉じ込められることだろう。)そのためか、それともユーチューバーになりたいという今の時代の子どもたちだからなのか、多くの子が練習の段階から出たくてしかたがない風である。だから終演後、たった一度の上演ではもったいないという声を聞くと、別の場所で別の緊張感をもってやってみるのも面白い体験になるかもしれないと思わないこともないが、それは現実的にできそうもないし、やはりたった一度きり、親の前でやるからいいのだと思う。

2019年末劇 その本番についてだが、初めてお客さんの前で上演すると、こちらが予想しているのとは違う場面で笑いが起ることがある。ギャグの類は最初から入れてあるのだが、それとはまったく無関係の場面で思わぬ反応があり、何が可笑しかったのか、後でビデオの画面でその訳を探ることがある。いくつかあるが特に今回は「ハカ」の場面だった。笑いが起ることはあまり予想していなかった。ニュージーランドの原住民の踊りに起源を持つハカは、戦の前に互いを鼓舞し相手を威圧するために踊るものだから、恐ろしい形相をしたり力強い動きをする必要がある。ゲンコツに力を込めろ!相手をにらみつけろ!もっと動作にメリハリをつけろ!そんな指示を何度与えたことか。2019年末劇 2019年末劇でも照れがあるのか彼らに迫真の表情を作ることはむずかしく、とうとう本番までにニヤニヤ、クニャニャした動きがキビキビ、キレキレになることはなかった。ところがどうもそれが幸いしたようだ。本物のハカが持つイメージとかけ離れているのに、言われて見ればハカのようだし、それにしては今ひとつ迫力に欠けるし、でも本人たちはいたって真剣にやっているところに妙な可笑し味が生まれ、それがいつまでも止まないクスクスという笑いを誘っていたようである。

楽しさがあればこそ

十二月以来、元少(げんしょう)ブームが続いている。軟式のテニスボールを使った遊びである。地面に大きな田の字を描きそのマスに4人が入って一つのボールを打ち合う。相手は自分以外の3人であり、各マスは少、中、大、元と名前があり、その順に位が上がる。ボクもいろいろな球技をしてきたがこの元少はなかなか優れたボール遊びだと思う。簡便で安上がり、動体視力や下半身の筋肉を鍛えることができ、小学生から老人まで一緒に楽しむこともできて・・・他にもメリットは書き切れないほどある。世界元少推進協会でも作りたいほどだ。ただ、卓球と同じように熟達者と初心者の差も大きいので、自分は下手だと思っている子が入りにくい面がある。今年は、初心者や女子だけの専用コートを作ってその点をカバーしようと思っている。

さて、数多いメリットの中で、一番大事かも知れない隠れたメリットについて書こうと思うのだが、そのためには元少のルールについて書いておく必要がある。テニスやバレーボールと同じでボールの着地点がインなのかアウトなのか、それは勝敗を分ける大きなポイントとなる。大人のスポーツではその判定のために審判やラインズマンが存在する。審判が公正で中立であることは当然である。人の目で判別できない場合はビデオ判定がある。テニスの国際試合ではボールとラインの位置がミリ単位で映し出される。それほど着地点は重要だということだ。ポランの元少は子どもの遊びだから審判はいない。判定するのは出番を待っている子を含めたその場にいる全員である。みんなで「入った入った」とか「アウトだ」とか言い合うわけである。どうしてもみんなの意見が割れてしまって決着がつかないときは《一騎打ち》という選択がある。ボールを打ちこんだ子と打ちこまれた子のふたりだけで勝負をする。《一騎打ち》の結果は誰もが受け入れなければならない。ビデオ判定の役割を持つと考えればいい。

ところが、子どもたちの判定の下し方というのが実にいい加減なのである。見てもいないのにアウトだと言い、何となく多い方に同調したりする。仲間関係、学校でのいさかい、昨日のうらみなど、公正・中立とは別の基準が入り込む。弱肉強食の力関係が優先したり、親分格の子のワガママがまかり通ったりする。時々、泣きながら判定の不服を大人に訴えて来る子もいる。そんな時は5回に1回くらい仲裁に乗り出す。双方の言い分をボールの流れを確認しながら聞く。一人一人の顔色や目を見ていると誰が正しくて誰が怪しいかが自ずと分かる。メンバーの顔ぶれによっては意地悪さを感じることもあるが、ボクの裁定でケロリとしてゲームを再開する様子を見ると、悪気もあまりないようである。全員が審判であることを強調して仲裁は終わる。

さて、今風に考えればよくもめるという点で問題のある遊びとされるのかもしれない。でも、もめ事が多いはずなのにそれで決裂することもなくサラリとやり過ごし、来る日も来る日も、雨の中でも続けている。数か月も持続する楽しさこそがもめ事というデメリットをたくさんのメリットに変える最大の理由だと思う。絶えずインだ、アウトだの言い合い、その結果に不服がある者も、ウソが見破られなくてシメシメと思う者も、それなりに自分の気持ちを飲み込んで先に進む。つまり《自己主張、納得、あきらめ》を一日、何十回も繰り返すのである。ボクはそのことがとても貴重な体験だと思う。公正なやり方を教わる機会は他にもある。でも、いい加減であろうが、子どもたちだけで決着をつけ、小さな感情のぶつかり合いを互いに飲み込んで、また遊びを続ける。数分待てばすぐにやり直しの機会が来る。それがあるから不服を残す子もあきらめることができる。そういう気持ちのコントロールを学ぶ機会は、子ども時代のこうした遊びにしかできないと思う。不正だと感じながら相手をやり込めた子の心にはチクリと痛みが残る。それはやがて本物の反省となるかもしれない。悪ふざけに加担した子の中には、自分が高学年になったらこんなやり方はやめようという気持ちが芽生えるかもしれない。デジタルゲームでは絶対に学べないことがこうした昔の単純素朴な遊びにはある。子どもたち、よく遊びよく学べ。