平和の中にいる

小さくても貴重な体験

子ども時代の体験としてとても大切だと思うことの一つに命との出会い、触れ合いがある。自然に恵まれたポランには命と出会う機会が日常的にある。先日はモグラの死体を見つけて子供たちと見た。群がってきた子どもたちの中にはモグラという生き物を初めて目にする子もあるようだった。「何これ?」「モグラって何?」「かわいい!ぬいぐるみみた〜い。」そんな声が聞こえた。地面の中を掘り進むための鋭い爪のある手や丸っこい体に触らせたり、目がどんなふうか観察させた。別の日、川で捕まえた数尾のヨシノボリが容器の中で白い腹を見せて腐臭を発していたことがあった。前日に家に帰る前に川に戻しておくように注意したにもかかわらず、である。その子たちを呼んで容器の中をよく見せ、川に捨てさせた上で、「10匹の魚の命を奪うとその人の寿命が1年縮むゾ」と脅しておいた。また、ポランではチョウやセミの羽化に遭遇することもある。

セイブツは文字通り生きている物であり、当然、死ぬ時が来る。生き物と触れ合うことは最終的には死と直面することであり、命について何かを感じとる体験をすることになる。ペットとして可愛がっていた生き物の死でなくても、あるいは心の通う大きな動物の死でなくても、たまたま見かけたちっぽけな昆虫や魚やモグラの死体ですら、子どもたちの心に何かを感じさせる。生きて動いていたものがダラリとしたり硬直したりしてピクリとも動かなくなった状態を見て何かを感じる。その何かが何なのかを説明する言葉をボクは持たないが、少なくとも死体を見つめるとき子どもたちの顔からは笑顔が消え、何か真剣な表情になっていることは確かである。たぶん《命》というものを原初的に感じているのだろう。そしてその感覚や光景は想像力の源となり、やがて人間の命について考えるためのよすがとなるにちがいない。だからボクはヨシノボリを放置して殺してしまった連中を口では脅しながらも、心の中では「しっかり目に焼き付けておくんだゾ」という気持ちなのである。

セミ

しかし、ポランですらそんな大切な体験をする機会が減っているように思う。NHKラジオの「夏休み子ども相談」という番組で昆虫学者が、昆虫を毛嫌いする若者や子どもが増えていることを嘆いていたが、ボクも同じ気持ちだ。虫よけスプレーを持ち歩くことは常識となり、ヒアリやダニやヤマカガシを避けることばかりが喧伝される。虫嫌いの母親や教師が増えますます虫嫌いが再生産される。生き物を飼えばいつかは死ぬ。生き物は死ぬからイヤだという母親たちの声や、トンボの羽をむしる子をいけないことだといって戒める声があるが、ボクはそれには異論がある。ちっぽけな命を見つめることで、より大きくて大切な命のことを想像することができる。昆虫や小さな生き物たちはそのために子供たちにさりげなくその命を差し出してくれているのだとボクは思うようにしている。

夏は戦争を考える季節でもある。世界は今、残念ながらきな臭いにおいが漂い始めているようだ。戦争はどんな立派な大義で始まった戦争でも最後は結局、大義は忘れられ、多くの弱い人間の命が失われなければ終わらない。日本人の8割が本当の戦争を知らない時代になった。ヒロシマや長崎の原爆がいかに悲惨で、核兵器がいかに非人道的かを、実体験に基づく迫力のある自分の言葉で語り伝える人がどんどん少なくなる。理屈でしか戦争を考えない人間が増えれば、「戦争も時と場合によってはやむなし」と考える人が増える。そのやむなし派に引っ張られてしまえば、三度(みたび)後悔するはめになる。一部の指導者のメンツや怒りや魂胆に付き合わされることのバカバカしさを、体験した世代には語り残してほしい。生々しい言葉で書き残してほしい。そしてその記録を読む若い世代にはそれを想像力で膨らませてほしい。体験しなくても十分理解できるのは想像力の力である。ヒロシマの「原爆の図」を描いた画家丸木俊さんの次のような強烈な言葉を肝に銘じておきたい。《体験しなければわからぬほど、お前たちは馬鹿か》。

イタズラボード

ポランでは父母への連絡用におたより以外にホワイトボードも使っている。最近、そのボードにいたずらをするやつらがいる。落書きではなく、その逆で、こちらが書いた文字を部分的に消すのだ。指でこすれば文字は簡単に消える。例えば『ポン』が『ポン』になっていたり『からない』が『からない』に『』が『』になっていたりする。に、に簡単に変わる。最初のうちは気がつかないほど控えめだったがだんだんエスカレートしてきた。最近目にしたのは『きがえ』が『こかん』になっていた。巧妙な手口から高学年のしわざだと判明した。いたずらボーズめ。

イタズラボード

フップの訓練

フップ

ボクがフップ(犬の名前)とボールで遊んでいると子どもたちが近寄ってきた。投げた野球ボールをフップがくわえてまっすぐに戻って来ると褒美をやる。子どもがやりたがったのでやらせてみた。ところがある子が、投げるふりをして投げなかった。フェイントだ。現代の子どもたちがよくやる冗談だ。フップは走りだしかけて迷った。ボクはすかさずそれはダメだ!と禁止した。なぜ?と子どもは訊いた。動物には冗談が通じない。とくになにかを訓練している初期段階では、訓練者との間に絶対的な信頼関係を築くことが肝心だ、ということを説明した。その場にいた子どもたちがとても納得した顔をしたのが印象的だった。

昔、盲導犬にするためのゴールデン・レトリーバーの子犬を預かって育てたことがある。盲導犬協会の方からパピーウオーカーの心得として最初に言われたのが、人間のことが大好きだと感じる犬にさせてほしいということだった。それが盲導犬になるための訓練に必要な人間との間の絶対的信頼関係の基になるからだ。盲人は犬を信頼して光の無い暗い世界を歩く。犬は、仕事が終わったら主人によくやったネと頭をなでてもらって遊んでもらうことを楽しみに先導という仕事をする。命を預け預けられる関係でもある。そこには冗談やフェイントは必要ない。あってはいけない。

フェントや冗談は、親しい仲間の間ではあってもいいし、話術の一つとして、あるいは潤滑剤として必要な場合もあろう。テレビではお笑いタレントたちのジョークやボケやツッコミが花盛りで、時にはいじめにも通じるようなオフザケを目にすることもある。それを見て育つ子どもたちがそれを良いこととし、マネをするのは当然のことだ。でも、時と場所を選ぶことも同時に学んでほしい。フェイントで戸惑う動物の様子を見て笑っているのは人間だけで、動物の方は少しも面白くはないはずだ。

《絶対的信頼関係》なんてことについて語ることは日常生活の中にあまりあることではない。今日はまったく偶然のできごとだったが、フップのおかげでとてもいい瞬間になった。

退屈しなさい

夏休みは大変だ。朝から夕方まで、とにかく時間が長い上に子どもの数も多い。この暑くて長い40日をどうやって切り抜けるか。こちらは必死である。毎年、『ヨシッ!』と自分にムチを入れるような気持ちで夏休みを迎える。でも、見方によっては時間がたっぷりある夏休みは、まとまったことをやれるいい機会でもある。どうせなら楽しいプログラムを、普段できない遊びをやろう。そういうことで、ポランの夏の盛りだくさんのプログラムはスタートした。中でもビー玉やベイゴマは時間がたくさんある時にしかできない遊びで、ポランの夏の代表的な遊びである。

ベーゴマ

ベイゴマもビーダマも何とかできるようになるためには時間がかかる。飽きずに倦まずに辛抱強く取り組まなければならない。普段の学校や習い事に忙しい生活の中ではとてもそんなことはできない。夏休みだからこそ毎日毎日ヒモを巻き、2週間も3週間もかけて練習をすることができる。そして、ひとたびできるようになると奥が深く、飽きずに遊ぶことができる。しかも子どもだけで遊べる。特別なことが何もない時間に、ベーゴマやろうと声を掛ければ誰かが寄ってくる。ビーダマでもやろうと仲間を誘えば小一時間は楽しく過ごせる。

退屈するほどの時間があることには他にもメリットがある。それは普段とは違う行動をしなければ退屈がしのげない場合があるということである。普段のポランなら、夕方のほんの数時間しかここにいないわけで、気にくわない相手がいたら接触しなければそれでいい。年齢の離れた異性とは口をきかず名前も知らないまま過ごすこともある。ところが夏休みになると、何かのめぐり合わせであまり馴染みのない子と過ごさなければならなくなることがまま起きる。他にビーダマをする相手がいなければ初めて言葉を交わす相手にも声を掛けなければ人数が足らない。気にくわないヤツも仲間に入れるしかない。あるいは、普段の短い暇ならゲームでもマンガでも読んでつぶすことはできるが、何もすることがない暇な時間が長いと、いつもあまりやらないこと、例えば将棋や読書、大人のお手伝いや仲間探しをするしかない。家にいるのとは違い、自由で思い通りにはならない時間が長くあることで何かが変わる。退屈すら自分で解決しなければ誰も助け舟を出してくれない。そういう時間の過ごし方をする中で、新しい展開が生まれる。何か見方が変わることもある。ポランで過ごす長い夏休みの毎日にはそんな我慢することで学べるものもある。

やんわり叱る

夏休みの学校のプールへはポランで通学団を作って行く。その際の班長は当然、5,6年生になる。夏休み初日の朝、整列し班長を決めようとしているのに高学年の姿がない。班長に指名されるのを嫌って陰に隠れているのだと直感した。毎年のことであり、今年の5,6年生のことを見続けてきたからそう思う。咄嗟にボクは後ろの方に固まっている連中に聞こえるように言ってやった。「今年は頼りにできる班長がいないようだから、自分たちだけで行くことにしよう」。出発した列の最後尾を、ボクのイヤミな視線を浴びながら高学年たちが伏し目がちに通って行った。

翌日の朝、同じ時間、高学年の姿は列の前の方にあった。

ヒアリ問題

女の子が呼びに来る。「ロク、来て来て。ヒアリがおるで」。少なくともまだこのあたりにヒアリがいるとは思えない。それにこの子たちにヒアリとそうでないアリの区別がつくとは思えない。なのにすべてのアリをヒアリだと断定して怖がってしまう。見に行ってみると確かに真っ黒ではなかったが、もちろんヒアリではなかった。

ヒアリとそうでないアリの区別もつかないのにアリ=ヒアリとして怖がる。スズメバチやマムシもそうだが、危険な生き物にはそれなりの付き合い方がある。それを学ばずに全てを怖がり、すべてを避ける。そんな現代人の傾向がいいとは思えない。これでまた昆虫嫌いが増えることになりかねない。残念なことだ。