タンポポ

またまた春が

3月にはいってから何かと忙しい日々が続いていた。やっと一息つけたと思ったらもうゴールデンウイークだった。春はいつもそんな感じだ。春休みは今年も賑やかだった。小学校を卒業した6年生たちは、自分たちで計画した合宿とそれに続く春休みの行事に積極的に参加した。最後のポランの思い出として心に焼き付けているかのようだった。そして中学の入学式前日まで毎日顔を出して遊んでいった。一方、入学前の一年生もどっと顔を見せ始め、物珍しそうにあちこち飛び歩いている。ポランの春休みは7つの学年が混在する特別な季節だ。

さて、この「ポランの森から」は連絡事項を掲載するための事務的なお便りではない。ボク(ロッカク=子供たちはいつの頃からかロクさんと呼ぶ)が38年間も続けている私的な通信である。その昔はガリ版刷りだった。月に2度出ることもあれば数か月の間出ないこともある。きまぐれな通信だ。内容は、子どもたちの様子を書くこともあれば世相に対するボクの思いを書くこともある。読んでもらえれば嬉しいが、近頃は文字が多くて話が難しくなりがちなので、読まれなくても仕方がないと思いながら書くことにしている。ただ、40年間も定点観測(同じ年齢の子らが同じ場所で同じ遊びをしているのを)している人間が書くことには、それなりに希少な価値があるかもしれないと思って目を通してもらえたらやはりその方が嬉しい。

子ども時間について

子どもの心はやわらかい。こだわりがない。垣根が低い。傷つくことが少なく回復も早い。なぜ子どもの心はそうなのか。それは幼くて弱い命は新しい環境への順応性が高くなければ生きてゆけないからだ。成長につれて保育園、小学校、中学、高校とどんどん新しい環境に移る。突然の引っ越しや転校もある。祖父母との死別や時には親の離婚もあるかもしれない。自分の都合や意志とは無関係に環境が変わってしまう。どんな環境や状況の下でも順応しなければならない。1歳の頃にした大手術の痛みや苦しみの記憶が残らないことも、ある意味で未発達な子どもに備わった生命の維持に必要な機能だといえる。

ところが子どもたちのこの順応性はズボラ、イイカゲン、デタラメ、ムトンチャク、アキラメが早い、シュウチュウリョクがない、などのマイナス面と表裏一体でもある。アキラメが早いから傷つかない。こだわりがない柔らかな対応ができるのだ。ところが、大人にはマイナス面ばかりが目についてしまう。男の子が汚いことが好きなのは、不衛生な環境でも生きてゆくために必要な適応力と通ずるはずなのに、きれい好きの母親たちには嫌われる。ケンカや不公平なことは悪いことだとして諭され禁止される。物事を最後まできちんとやれないと根性がない、ダラシガナイといわれ、欠点としてしか見てもらえない。

さて、前置きが長くなったが、今回、第1号に書いておきたいことは《子ども時間》についてである。それは子ども時代にしか育たない大切なものが育つための時間のことである。体や頭のことも大切だが、今は子ども時代にしか育たない心の問題を考えてみる。一つ事例を挙げる。39歳の独身の男性の話だ。数年前まで一流企業に勤務していたが今は統合失調症で家に引きこもっている。発病の原因は仕事上のストレスらしいがはっきりしたことは分からない。発症した最初の頃は両親に対して暴力的になることもあり薬を服用したが今は落ち着いている。しかし両親とは一緒に食卓は囲むが一切口をきかない。子ども時代はまったく問題がなく普通以上に優秀な子供だった。それがどうして・・・、年老いてゆく両親は、診療機関へ行くことを拒否する息子を無理矢理に連れて行くわけにもいかず不安を募らせている。

面識はないが実はこの男性はボクの知り合いの息子だ。両親の気持ちを思うとこちらも心が沈む。この話を聞いて思ったのは彼の子ども時代の過ごし方である。普通以上に優秀な子だったというが、ズボラでイイカゲンなやり方が許容されていただろうかということだ。電通という大企業の女性社員が過労で自殺したというニュースを目にした時にも同じことを思ったのだが、「まっ、いいかあ」とズボラになること、ちょっと気を抜くコツを心得ていたなら、死を選んだり心を病まなかったのではあるまいかと。

世の中がコンピュータ化され、あらゆることが細分化され緻密で専門的になった。照明や防犯カメラが行き渡り人の目が届かない暗い場所が少なくなった。医療や衛生面でも清潔な環境が浸透した。天気情報も交通情報も健康情報も詳細で丁寧になった。必要な変化なのかも知れないが、大雑把でゆったりしたやり方が許されない、緊張を強いられる世の中になったと思う。大人はそれでもいいかも知れないが、こういう世の中に生まれ落ちる子どもたちのことを思うと心配になる。幼いうちからコンピュータ制御の緻密な環境の中で暮らしているわけである。情報や物が、自分から求めなくても向こうから必要以上に押し寄せてくる。できることと知識として知っていることとのギャップが広がり等身大の自分が認識できない。体験の裏打ちがないので自信は持てない。不安感は増す。そうなると人間はどうなるのか、それは今実験段階であり、誰にも分かってはいないのかもしれない。この男性やデンツウの女性社員、そして高齢化した引き籠りが増えたのは、その一つの結果を示しているように思う。

子供時間というのは大人の目が届かない時間という意味でもある。子どもが犯罪に巻き込まれる心配がある時代だから大人の目が届かない時間や空間を確保することは難しい。だからといって子どもを大人の管理の中だけに置いておくことは、子ども時代にしか育たないものが育たないことになる。子どもは大人の顔色をうかがう能力も順応性として持っているから、大人の中だけで育つと、大人や親の気持ちを先取りして《手のかからない》子や《真面目で聞き分けがいい》子になる。そうして育った優秀な子が世の中に出て能力以上の課題を抱えてしまった時、最後までがんばり通そうとしてつぶれることは十分考えられる。手抜きをして自分を守るやり方があることなど思いつかないだろう。「大雑把」や「ズボラ」や「不公正」の裏には「しなやかさ」や「強さ」「たくましさ」「寛容さ」が隠れている。でも大人たちの目はそういうものを許さない。どうしても子どもに教えたがる。きちんとさせたがる。民主的でないやり方を目にすると許しておけない。それが大人の役割であり善意だと思ってしまう。しかし、大人が言葉で教えられることは全体のせいぜい2,3割だ。あとの7割以上は子どもが吸収力や洞察力を武器として試行錯誤しながら身につける。子どもたちだけで過ごす時間、仲間と過ごす時間、一人だけで過ごす時間の中で学び身につける。そこで育つものは具体的にどういうものか定かですらない。でも、いや、だからこそ大切なのだとボクは思う。子ども集団、仲間との交流が有している切磋琢磨という教育力、それを信じて子どもを放すこと、託すことが大事だと思う。こういう時代になればなるほどその大切さを感じる。

キーワードがある。それは「大人の生活パターン、大人の好みに染めるな」ということ。水洗トイレ、洋式トイレでないとダメな子、毎日シャンプーしないと落ち着かない子、裸足で土の上を歩けない子、習っているスポーツしかやろうとしない子、失敗を極端に恐れる子・・・、みんな大人たちが作り出している。大人がそうさせている。大人的な暮らし方に早く染まると、早く大人的な考え方や感覚を持つようになる。早熟する。今の時代、早熟していいことはあまりないような気がするのだが・・・。

道具遊びでのハプニング

ポランの遊びの代表的なものに基地遊びがある。敷地のあちこちに基地がある。木の上、藪の中、ちょっとした茂みの中、水路の上などにもある。廃材、竹、ビニールシート、ひも、ブロックなど、いろいろなものが材料になる。ノコギリやカナヅチなどの道具を使って作る。ケガもするが使い方が上手にもなる。

チョロチョロと水が流れているので、その流れでもよく遊ぶ。雨が降った翌日などは水量も多くてダム遊びが活発になる。石で堰き止めたりスコップで流れを変えたりして遊ぶ。これはとてもぜいたくな遊びだといつも思う。

そんな風に道具を使った遊び方をするものだから時々、予想外の困ったことも起る。水路でスコップ使っているときに粘土が出たりするとそこをドンドン掘り進む。そこが斜面の下だったりすると斜面が崩れることになる。自分の身が危険なだけでなく斜面の上にあるグランドが壊れることにもなりかねない。急いで禁止する。あるいは、基地になりそうな場所を見つけて柱を建てる穴を掘っているときに頭の赤い杭をついでに掘り出してしまう。それは隣地との境界を示す大事な杭だ。そんなことは知らないから抜いて飾ってあったりする。わけを話して元の場所に正しく埋め戻しておく。隣の山の中で大きな穴を掘っていたこともある。隣の地主におだやかに注意された。隣の工場の裏に積んである赤レンガを持って来て削って遊んでいることもある。これも即禁止だ。泥ダンゴを作るためにいい土を誰かが見つけるとグランドの一角だろうが部屋の隅(ポランの部屋の床は土)だろうが掘る。これも困る。2階の基地に重いものを持ち上げることにも目配りをしないといけない。大きなケガにつながったことがあるからだ。

新しい一年生が入ると鐘の合図のことや手洗いのことなど生活上の約束事は説明する。でも予測不能のことにまで注意を与えることはできない。さて、山や森に囲まれた広くて境界が分からないようなポランの中で、外で?今年はどんなことをして困らせてくれるだろうか。

ソーラン!ソーラン!

春休み、プールの前のテラスで子どもたちが毎日のようにソーラン節を踊っている。ヤングソーランという踊りで、運動会で5,6年生が披露する演目だ。といっても今年はまだその練習どころか新学期すら始まっていない。新6年生は去年5年生のときに一度やっているわけだが、踊っているのは旧4年生が多い。低学年も混じっている。聞いてみると運動会の一番の楽しみはこのヤングソーランだという新5年生もいる。黒っぽい衣装や鉢巻姿がカッコ良くて、低学年たちは密かに憧れているらしい。だから踊りも歌も習わなくても頭に入っているのだ。「ソーランソーラン」「ソーランソーラン」と掛け合いながら歌って踊る。大きな声で叫ぶように歌うのはさぞ気持ちのいいことだろう。運動会は5月、こちらも楽しみにするとしよう。

一年生たちの冒険散歩

新一年生たちを連れて裏山に分け入る。恒例にしている冒険散歩だ。道のないような場所も歩く。スリルのある場所にも立ち寄る。靴や服が濡れたり汚れたりするかもしれない水辺や沢にも入る。ちょっと楽しげな場所に連れて行ってやろうという思いで20年ほど前に始めたプログラムだが、このごろはそれぞれの性格や行動パターン、注意力があるか、状況判断ができるか、あるいは全体のまとまりなどを観察させてもらう良い機会となっている。自然体験が乏しくなっている昨今では、初めての山体験、初めての沢遊び体験、危険体験の意味合いも加わっている。山に入るとき、何が危険か、どんなことをしてはいけないか、どんなことに注意しなければならないのかを教える。もちろんどんな楽しみがあるかも感じてもらいたい。ポランの入学テストかもしれない。スミレを見つけ、葉っぱを鳴らし、葉っぱを口にし、天狗の団扇を折り取りながら歩く。ダムの上に立って足のすくむような思いをし、イノシシの足跡を眺め、サワガニやカエルを捕まえる。はみ出すヤツがいないのはちょっとさみしい気もするが、今年の一年生たちもまずまず合格としよう。

ノビル焼き

ノビル焼き

ウオークラリー

ウオークラリー

ウオークラリー

ウオークラリー

冒険散歩

冒険散歩